2021年 2 月2日(日) 受難節 第1主日 教会墓地建立感謝礼拝
 

「信仰の継承」
詩編145編 1〜21節
北村 智史

 標記の聖書箇所(詩編145:1〜21)は、詩編の中でも群を抜いて優れた賛美の歌になっています。この詩編を読んでまず思わされるのは、「世々」(「代々」)という言葉の多さでしょう。主の王国の民として「わたしの王、神よ」と呼びかけるこの詩編の作者は、まず「世々限りなく御名をたたえます」と、神様にその決意を表明します。そして、その次の節でも「世々限りなく御名を賛美します」と歌うのです。その他にも、4節を見れば「人々が、代々に御業をほめたたえ 力強い御業を告げ知らせますように」という祈りが登場し、13節でも「あなたの主権はとこしえの主権 あなたの統治は代々に」という御言葉が登場します。そして、この詩編の締めくくりの21節でも「すべて肉なるものは世々限りなく聖なる御名をたたえます」と歌われているのです。
  こうした「世々」(「代々」)という言葉が示しているのは、この詩編が決して個人の賛美歌として終わるものではないということです。実に、この詩編は神様のもとで永遠に続いていく主の共同体の賛美歌として作られたものでした。実際、現代の聖書学では、この詩編145編が146〜150編と共に、明らかに共同体の式文用に用いられた歌であることが分かっています。ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)では日毎の朝礼拝に二度、夕礼拝に一度、この詩編145編が歌われていたのでした。また、15節の「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたはときに応じて食べ物をくださいます」という御言葉のために、古代教会では昼食時に、また幾世紀もの間、特に学園で食事の時にこの詩編145編が用いられました。古代教父のクリュソストモスは、先程の15節の御言葉のゆえに、この詩編145編が聖餐式に用いられたと伝えています。
  いずれにせよ、主の共同体の中で代々歌い継がれてきたこの詩編の歌を、私はこの教会墓地感謝礼拝で皆さんと共に賛美したいと考えたのです。そこには、神の民が受け継いできた信仰を私たちもまた受け継いで次の世代へと渡していきたい、そして神様に対する賛美の歌を、途切らせることなく世々(代々)に響かせていきたいという思いがあります。
  実は、詩編145編の3〜7節は「御業の賛美」と呼ばれていまして、神様が主の共同体にこれまで示してくださった救いの御業が想起され、ほめ讃えられているのですが、これらの御言葉を読んでいますと、イスラエルの出エジプト、カナン入りだけでなく、イエス・キリストの十字架と復活の御業から今の私たちに与えられた数々の恵みの御業まで、色々な救いの御業が思い出されて、胸が熱くなります。神様が過去、現在、未来に渡って、私たちを救いへと導いてくださっていることが良く分かります。私たちも、信仰の先達たちも、神様のこうした御配慮の中を生かされてきたし、これから信仰を受け継いでいくであろう子どもたちも神様のこうした愛に支えられて生きていくことでしょう。この詩編145編を前に、過去から未来にわたって、またどんな時にも私たちと共にいてくださるインマヌエルの神様、この神様に対する感謝と讃美の思いを新たにしたい、そして、この神様にどこまでも従っていく思いを新たにしたいと願います。
  それだけではありません。詩編145編の16節には、神様は「すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます」と歌われています。神様は私たちに惜しみなく恵みをお与えになるお方。私たちに対する神様の手は握り締められているのではなく、常に開かれています。私はこのことを特に強調しておきたいと思うのです。
  省みて、私たちの手は神様のように隣人に対して開かれているでしょうか。この世界の多くの人が歩んでいる人生、それは「獲得することに躍起になる人生」です。この世界の多くの人が一生懸命な努力を費やして、お金や地位や経歴、そうしたものを獲得するのに躍起になっています。それはまるで、与えるよりも受けることの方が大事だと言わんばかりの生き方です。そして、多くのものを獲得した人が立派な人として人から尊敬を集め、褒められます。
  けれども、イエス様は言われました。「受けるよりは与える方が幸いである」と。キリスト者である私たちの生涯において最も大切なことは、私たちが自分の手の平に何を握り締めたまま一生を終えるかということではなくて、その手の平を何のために開き、私たちの手を誰に向かって差し伸べるかという一事に他なりません。キリスト教の信仰を受けた人々は代々、イエス・キリストの十字架の御前に立ち、この課題を自らの十字架として背負ってきました。それは、私たち東京府中教会の信仰の先達たちも同じです。私たちの信仰の先達たちは、自らの手を隣人に開きつつ生涯を過ごされたのです。
  この度完成した教会墓地を前に、私は彼ら彼女らのこの生き方を偲び、これをしっかりと受け継いでいきたいと願います。この府中の地で、ただ神様の恵みをいただくだけではなくて、その恵みを自らの隣人と豊かに分かち合いたい、神様のようにいつも手の平を隣人に対して開いていたいと願います。教会創立から74年、願わくは神様がこれまでの歴史を豊かに導いてくださったように、これからの歴史をも豊かに導いてくださいますように。教会墓地を備えて、私たち益々この地で神様の御用に仕え、神様の御栄光を現していきましょう。そして、この信仰、この生き方を次の世代へと譲り渡していきたいと願います。

 
 
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