2021年 10月 31日(日) 降誕前第 8主日・礼拝説教要旨  
 

「自由に生きよう」
出エジプト記 3章 1〜10節
北村 智史

 この間、「AERA」という雑誌を読んでいたら、ミャンマーのことが特集されていました。皆さんもご存じのように、ミャンマーでは今年の2月に軍事クーデターが起きています。ミャンマーはもともと国の軍隊が強い権力を持っていたのですが、スーチーさんという強力な指導者の下、2015年の選挙で民主化が成し遂げられていました。しかし、軍は自分たちの権限が失われていくのが面白くありません。民主化に反発して今回のクーデターを起こしたのです。
  これに対して、市民たちはすぐに抗議運動を起こしました。しかし、軍はこれを暴力で押さえつけて、既に子どもを含む800人以上が殺されてしまったと言います。こうした状況は今も続いています。まさに軍隊と市民による闘いが繰り広げられているわけですが、こうした市民による抗議活動の主役として注目されたのがZ世代と呼ばれる若者たちでした。1990年代半ば以降に生まれた人たちで、SNSなどを用いて、世界に今のミャンマーの悲惨な状況を訴えたのです。
  「AERA」では、ビョーさんという、デモに参加している若者の言葉が紹介されていました。「デモに参加して怖くないのか」という質問に対して、「もちろん銃は怖いけど、自由を失う方がもっと怖い」と語っていました。自分らしくいられる社会が失われるのは耐えがたい。その思いが、彼らをデモの最前線に駆り立てているのです。「AERA」の記事を読んで、日本と同じアジアの国で、命がけで自由を守ろうとしている若者たちがいることを改めて知らされました。そして、自由であることは決して当たり前のことではないのだということを強く思わされました。
  聖書にも、自由を奪われて奴隷状態に置かれた人がたくさん出てきます。その最たるものが、エジプトで奴隷状態に置かれたイスラエルの人々でしょう。かつてイスラエルの人々はエジプトで奴隷として働かされていました。そのひどい有様を御心に留めた神様は何とかしようと行動を起こされます。標記の聖書個所の中でモーセという人物を選び、次のように告げるのです。「私はエジプトにいるイスラエルの人々の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知りましたよ。それゆえ、私は自ら行動を起こし、エジプト人の手から彼らを救い出し、イスラエルの人々をエジプトから広々とした素晴らしい土地に導いて行きます。さあ、モーセよ。今、行きなさい。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。こうして、旧約聖書の出エジプト記では、モーセに率いられたイスラエルの人々がエジプトから脱出する出来事が描かれていきます。
  人間を神様に仕える自由な存在としてお造りになった神様は、人間が奴隷として生きてはいけないとお考えになったのです。出エジプトの出来事、そこには、御自分に従う者一人ひとりが何者にも支配されず、自由な者として生きて欲しいという神様の願いがありました。しかし、そのようにしてイスラエルの人々には自由が与えられるのですが、出エジプト記を読めば、その後、イスラエルの人々が荒れ野で何度も奴隷から解放されたことを嫌がったことが分かります。「奴隷の方がましだった」と何度もつぶやくのです。
  新潟の敬和学園校長の小田中肇先生は、学校の機関誌でこのことを取り上げてこのように語っておられます。「人間は、……神様から与えられた自由に耐えられず、自らそれを手放してしまうことがあります。自由であるとは、自分の生き方を自分で考えなければならないことです。それに対して、奴隷は、何をするべきかを考えないで済みます。与えられた命令だけをこなせばよいからです。ですから奴隷の方が、楽でいいと思ってしまうのです。今もそのような人はたくさんいます。何かの中毒の人は、皆、それらの奴隷です。薬物中毒、ゲーム依存、お金もうけしか頭にない人はお金の奴隷です。自分から進んで権力者の奴隷になる人もたくさんいます。残念ながらこのような人は特別ではなく、誰にでもそのような傾向が大なり小なりあります。」
  小田中先生のこの言葉を読んで、私は大勢の人に流されてしまう人も、それらの人々の奴隷状態になっているのかなと思わされました。よくいじめの現場などで、いじめっ子になぜその人をいじめたのかを聞けば、「皆がやっているから」といった声を聞きます。本当にその人が自立して自由に生きているなら、自分の生き方を自分で考えなければいけないはずです。本当にその行為が正しいか、自分で判断しなければならないわけですが、大勢に流されていればそんなことを考えずに済む。楽でいい。結果、大勢に流されて間違ったことをしてしまう。そのことにも気づかないわけです。
  こうしたことは決して子どもの世界の中だけのことではありません。大人の世界でもよくあります。皆がいじめているからいじめる。テレビや新聞、雑誌などで煽られて、簡単にアジア人等に対するヘイトに加わってしまう。SNSで皆がその人にひどい書き込みをしているから、自分もそこに加わってひどい書き込みをしてしまう等々、こうした例は枚挙に暇がありません。皆、自分の頭で考えることをせず、大勢の人の言いなりになり、結果奴隷状態に置かれているわけです。
  ミャンマーの若者のように自由を求めて闘う人もいれば、日本という自由な国にいても自らその自由を手放してしまう人が大勢いるその現実に、改めて自由とは何かということを考えさせられます。自由がなく、抑えつけられているすべての人々に自由が与えられることを神様にお祈りすると共に、私たち、神様から恵みとして与えられている自由の大切さを改めて心に刻みましょう。何かの奴隷になってせっかくの自由を無駄にする。そんなことがないように、自分で自分の生き方を考えて決めていく、そのような生き方を皆でしていきたいと願います。

 
 
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