2022年 10月16日(日) 聖霊降臨節第19主日礼拝・説教要旨
 

「背負ってくださる神キリスト」
詩編146章 1〜10節
北村 智史

 詩編146編から150編までは「ハレルヤ」という賛美で初めと終わりがまとめられていまして、「ハレルヤ詩編」と呼ばれています。その中でも今回は詩編146編を取り上げさせていただくわけですが、その内容はと言いますと、まず1〜2節で聖書の神ヤハウェへの賛美が為され、3〜4節では人間に信頼するなという警告が、そして5〜6節ではヤハウェに信頼せよという勧めが為されます。そして7〜9節で、ヤハウェというのがどのような神様であられるのか、その真実、信仰が告白されます。そして最後10節で、この世界を統べ治められる王なる神ヤハウェに再び賛美が捧げられるのです。
  中でも、7〜9節を見ていきましょう。ここにはこのように記されています。7節の前、6節の最後の文章から引用しますが、「とこしえにまことを守られる主は/虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち/主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。/主は従う人を愛し/主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。/しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。」
「虐げられている人」、「飢えている人」、「捕われ人」、「見えない人」、「うずくまっている人」、「寄留の民」、「みなしご」、「やもめ」。神様はこうした人々の側に立ち尽くし、こうした人々を真っ先にお救いになる。そして、「逆らう者」が権力を持ち、高みから「主に従う人」を抑圧する、その運命を逆転させられる。これがイスラエルの人々の神様に対する信仰告白でした。
  私たちキリスト者は、この信仰が歴史の中で決定的に実現し、具体化された出来事を知っています。それがイエス様の生涯です。フィリピの信徒への手紙2:6〜11に言い表されているように、イエス様は神様と等しい存在であったにもかかわらず、今からおよそ2000年前に人としてこの世に来てくださいました。それも家畜小屋の飼い葉桶の中というこの世の最も貧しい所に降って来られたのです。そして、人としてその生涯を徹底して弱さの中に生き、弱さの中にある者に仕えられたのです。「罪人」と見なされ、社会から疎外されて苦しむ人々に徹底して寄り添い、こうした人々を苦しめるユダヤ教の律法主義体制と闘われました。そして、十字架の上ですべての人の罪を背負って死なれ、すべての人々の罪と贖いを成し遂げられたのです。そして復活し、天へと挙げられ、今は聖霊という形でこの世界で働かれて、神様に「逆らう者」が権力を持ち、高みから「主に従う人」を抑圧するというその運命が逆転する、そして、「虐げられている人」、「飢えている人」、「捕われ人」、「見えない人」、「うずくまっている人」、「寄留の民」、「みなしご」、「やもめ」など、こうした人々が真っ先に救われる、そんな神の国が成るように教会の業を導いておられます。またすべての人を贖われたその愛によってすべての者を造り変え、新しく生まれ変わらせようと懸命に働いておられます。
  こうしたイエス・キリストを通して啓示されるのは、神様が決して苦しむ者を放っておかないお方だということです。苦しむ者を前に、神様は居ても立ってもいられません。私たちが苦しんでいる姿を見つけるやいなや、御自身の方から私たちのもとへと駆け寄って来られます。そして、イエス様の生涯を通して私たちの弱さや痛みを本当にご存じとなられた神様が、私たちよりも低きに下って私たちを根底から支えてくださるのです。
  翻って、私たちは苦難の時、神様を遠くに感じてしまってはいないでしょうか。あるいは、ただ神様が奇跡的な力を振るって、上から自分たちの状況を変えてくださる、また自分たちを引き上げてくださるのを待ってはいないでしょうか。そして、そんな気配が感じられないと、たちまち神様に失望してしまってはいないでしょうか。それは残念なことに、神様の低きに下られる御性質、そして背負ってくださる御性質を私たちが見逃してしまっている結果なのです。
  神様はただ上にいまして、私たちを冷たく見下ろしておられるのではありません。私たちがその御許に至る最後のその時まで、私たちを離れることなくいつも伴って歩いてくださいます。そしてある時には私たちを前に立って導き、ある時には横に寄り添って一緒に歩き、ある時には下から背負いというように、苦しい時ほど距離を縮めてよりそばに来られるのです。
  時々、求道者の方にこう尋ねられることがあります。「信仰を持てば、神様を信じれば、人生うまくいくのですか?」と。それが人生良いことばかり起こるようになるという意味ならば、答えは「No」です。信仰を持っていても、神様を信じていても、私たちの人生には辛いことも、苦しいことも起こります。そんなことを聖書は約束していません。実際、聖書を読めば、神様を信じる人で苦難の多い人生を送った人が何人も出てくるのですから。ただ聖書を読めば、多くの人が苦難の中を神様によって実際に支えられたことが分かります。信仰が、神様が、苦難もある人生を力強く歩み通す力を与えてくださることが良く分かるのです。
  これから先も、私たちの人生には苦難が付きまとうことでしょう。しかしそのたびにイエス・キリストを想い起こし、私たちのそばに走り寄り、私たちよりも低きに下り、背負ってくださる神様に自らを委ねていきたいと願います。神様に負われつつ、隣人同士互いに重荷を背負い合い、励まし合いながら皆で一緒に歩んで行きましょう。そして信仰の徒競走を、神様の御許に至るまで皆で一緒に走り通して行きたいと願います。

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.