復活節第4主日(2013年4月21日)説教要旨  
 

「イエスの復活と命」
(ヨハネによる福音書11章17〜27節)
北村 智史

 「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」というヨハネによる福音書11章7節の言葉に表されているように、マルタは自分の兄弟の死という絶望的な出来事の中にあっても、なお神様の決定的な救いをもたらす「救い主」としてイエスのことを固く信じていました。しかし、「あなたの兄弟は復活する」とのイエスの言葉に、彼女は「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。この言葉から窺えるように、彼女は終わりの日における救いについては信じることができても、今目の前にあるこの出来事に対する救いについては信じることも想像することもできなかったのです。そんな彼女に、イエスは「今あなたがたの目の前にいる私が復活であり、命なのだ。私によって終わりの日に与えられる復活と永遠の命は、あなたの前にすでに来ているのだ」と、御自分の救いが決して終わりの日にしか意味を為さないものではなくて、今の救いでもあることをお教えになりました。

 こうしたイエスの教えは、今を生きる私たちにとってとても大切なことではないでしょうか。なぜなら、今を生きる私たちもまた、イエス・キリストによって終わりの日には蘇り、神様の御許で永遠の命に憩う完全な救いが与えられるという教えを持ってはいても、目の前の悲惨な出来事に「いったいそれが何になるのか」と今に救いを見出すことができず、インマヌエル(※「神は我々と共におられる」という意味)の主がその終わりの日まで私たちと伴って歩いてくださっているというその恵みと救いとを見失い、絶望に陥って嘆き悲しむということが起こりうるからです。

 しかし、イエス・キリストはいつも私たちのそばにおられ、ある時には私たちを前に立って導き、ある時には横に寄り添って一緒に歩き、ある時には下から背負うというように、苦しい時ほど距離を縮めてそばに来られるのです。でも、残念なことに、私たちは苦しい時ほど神様を「どこにおられるのか」と遠くに探してしまい、いつもそばにおられる神様の姿を見失ってしまいます。そのような時、私たちはヨハネによる福音書11章17〜27節を通して語りかけてくるイエス・キリストの御声に耳を傾けなければなりません。

 ユルゲン・モルトマンという神学者は、キリスト教が持つ希望の力について、それは「あきらめや人生の敗北から立ち上がる力」、「死の陰から、いのちに生まれかわる力」、「罪のために生が不可能とされたところで、新しい始まりへと向かう力」だと語りました。そして、イエス・キリストの十字架と復活について次のような言葉を述べました。「キリストの、神による死人の中からの蘇りによって、ゴルゴタにおいて十字架に付けられた、あのキリストの絶望的な終りは、その真実の始まりとなりました。このことを銘記するなら、私たちはあきらめるのではなく、すべての終りに新しい始まりが隠されていることを待ち望みます」。

 私たちの世界を振り返ってみれば、そこにはたしかに神様の御旨とは思えない悲惨な罪の現実や理不尽な出来事が多く存在しています。しかし、だからといって私たちは、終わりの日に完全な救いが与えられる前に、今与えられている恵みと救いとを見失い、信仰から零れ落ちてしまう存在ではありません。モルトマンの言葉に表されているように、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、どれほど絶望的と思えるような出来事の中にも、必ず新しい始まりと希望が隠されていることを私たちに教えてくれています。このことを思えば、私たちは終わりの日における救いの完成に向けて、神様の御旨には程遠い現実もある今という時を神様に支えられながら、この救いを実際に始めていくように、日々神様に召されているのです。いついかなる時も、神様が御手のうちに私たちを包み込んでくださっていること、そして私たちが苦しむまさにその時にこそ、私たちをかけがえのない存在として愛してくださっている神様の懸命な眼差しが私たちに注がれていることを忘れずに、神様の救いに立ち帰っていきましょう。そして、そこから前へ進んで行く力、神様の御旨に沿わない現実を変えていく力を与えられ、日々愛の業に励みつつ、終わりの日に皆で一緒に神様の御前に立ちたいと願います。   

 
 
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