聖霊降臨節第8主日(2013年7月7日)説教要旨
 

「耳を傾ける姿勢」
(列王記上 22章 6〜8節
北村 智史

 私たちキリスト教会では、イエス・キリストのことが直接書かれている新約聖書だけでなく、イエス・キリストという文字が直接には出て来ない旧約聖書をも自らの正典としています。それは、旧約聖書で預言、約束されていたことがイエス・キリストにおいて成就したことを告げるものとして、新約聖書が旧約聖書を前提としているからに他なりません。

 このことを裏付けるように、新約聖書を紐解けば、そこには旧約聖書から引用された言葉や旧約聖書を下敷きにした箇所が数多く存在していることに気づかされます。また、福音書を読みますと、たとえばマタイによる福音書5:17に記されている、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉に象徴されているように、イエス御自身が旧約に深く根ざしつつ、これを乗り越えて完成するためにその生涯を歩まれたことが分かります。

 このように新約聖書が、イエス・キリストの言葉とその御業によって旧約聖書に書かれていたことが成し遂げられたのだということを私たちに伝える書物であるならば、私たちは肝心の旧約聖書を知ることなしに、本当の意味でイエス・キリストのことを理解することはできないと言えるでしょう。また、聖書は旧約聖書、新約聖書を通して同じ唯一の神様を証ししているのであって、新約聖書だけでなく、旧約聖書を通して聞こえてくる神様の御言葉にも耳を傾けることは、私たちの信仰にとってとても大切なことだと思います。

 本日はこうした考えから、旧約聖書を聖書個所に取り上げさせていただきました。列王記上22:6〜8です。この個所の理解を深めるために、少し歴史的な背景を見ておきますと、サウル、ダビデ、ソロモンという3人の偉大な王様によって栄えたイスラエル王国は、ソロモン王の死後、およそB.C.10世紀末に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂することになりました。本日の聖書個所に出てきます「イスラエルの王」とは、B.C.9世紀の初めから中頃にかけて北イスラエル王国で王位に就いたアハブという王様のことを指しています。聖書によりますと、彼は三度北イスラエル王国のさらに北東に位置していたアラムと戦争をしていますが、本日の聖書個所が含まれています22:1〜40には、「ラモト・ギレアド」というアラムと北イスラエル王国との間の国境の町を巡って繰り広げられたアラムとの三度目の戦争のことが記されています。

 アラムとの二度目の戦いに勝利したアハブは、かつてアラムに奪われていた町々を返してもらうことをアラムの王様に約束させていました。この中には、この「ラモト・ギレアド」も含まれていたのですが、22:3のアハブの言葉から窺えますように、この約束は果たされず、「ラモト・ギレアド」の町はまだ北イスラエル王国に返されてはいなかったようです。そこでアハブは、自分の娘を嫁がせて義理の親子の関係にあった南のユダ王国のヨシャファトという王様が自分のもとにやって来た時に、この町を奪い返すため、一緒にアラムと戦ってくれるよう願い出たのでした。

 本日の聖書個所は、このアハブの願いを承諾しながらも、アラムに戦いを挑むに当たり、まずは神様に伺いをたててほしいと言うヨシャファトの求めに応じて、アハブが預言者たちにこのまま「ラモト・ギレアド」に攻め上っても良いかどうかを尋ねた場面です。アハブはまずおよそ400人の預言者を自分のもとに呼び集め、彼らにこのことを尋ねました。すると、彼らは皆、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と、神様がアハブに勝利を与えてくれるであろうことを預言したのです。しかし、実は彼らのこうした預言の背後には、神様の真実を語るよりも、アハブのご機嫌を取ろうとする、そのような人間的な思いばかりがありました。彼らのこうした思いを見て取ったのでしょうか、ヨシャファトはこの400人の預言者の他にも、「ラモト・ギレアド」に攻め上っても良いかどうかを尋ねることのできる預言者がいないかどうかをアハブに尋ねます。そこで名前を挙げられたのが、預言者ミカヤでした。

 しかし、このミカヤは王のご機嫌を取ろうとか、そんな人間的な思いに決して流されることなく、神様の真実のみを語る真の預言者であったため、アハブにとっては不都合なこと、耳の痛いことをも告げる人物でしたので、アハブには非常に疎まれていたようです。アハブは初め彼の預言を聞くのを嫌がりましたが、ヨシャファトに諌められてこれを聞くことにしました。

 呼び出されたミカヤは、初めは皮肉を込めてでしょうか、彼を呼びに来た使いの者が「いわゆる空気を読んで、あなたも王の幸運を告げてください」と言い含めて来た通りにアハブの勝利を告げるのですが、結局は神様の真実を述べて、アハブが戦いに敗れて命を落としてしまうことをアハブに預言します。これに対して怒ったアハブはミカヤを投獄し、彼の預言に耳を傾けることなく、ヨシャファトと共に「ラモト・ギレアド」に攻め上って行きました。そして、ミカヤの預言通り、彼はアラムに敗れて、そこで命を落とすことになったのです。

 これが、本日の聖書個所を含めた列王記上22:1〜40に記されているアラムとの三度目の戦争のお話ですが、このように見ていきますと、この個所が北イスラエル王国とアラムとの戦いについて記されたものであるにもかかわらず、預言、すなわち神様の言葉に対するアハブの姿勢が大きなテーマになっていることに気づかされます。そして、自分にとって耳障りが良く、都合のいい神様の言葉だけを聞きたいと願うアハブの姿、それゆえに本当の神様の言葉を告げるミカヤの言葉を退け、400人の預言者が告げる偽の、ご機嫌取りの預言の言葉を取り上げて滅びに至ったアハブの姿が、今の私たちの神様の言葉に対する姿勢と決して無関係ではないように思えてくるのです。

 はたして、私たちはどれほど信仰生活において、神様の恵みの言葉だけでなく、悔い改めを促す言葉にも誠実に耳を傾けることができているでしょうか。私は、神様は私たちを用いて御自分の御旨をこの地に成し遂げるために、聖書を通じて二つの愛の御声で私たちに懸命に語りかけておられるのだと信じています。それは、「あなたはイエス・キリストと同じように私の愛する子だ。私は何があっても、またあなたがどのようであっても、あなたを見捨てることなく、あなたに無上の愛を注ぐ」と私たちを包み込み、心を聖めて根本から創り変えてくださる、思いやりと寛容に満ち溢れた恵みの御声と、御自分の御心から離れて行かないように私たちを懸命に引き留めて叱咤激励する厳格な裁きの御声の二つに他なりません。しかしながら、私たちが生きている世界を振り返ってみれば、そこにはどれほど自分にとって都合の良い神様の恵みの御声だけを取り上げて、あるいはでっち上げて、都合の悪い、耳の痛い裁きの御声に蓋をしてしまっている現実が存在していることでしょうか

 このことに関連して、あるカトリックの神学者は、宗教が世界の至る所で争いを引き起こしている今の世界の悲惨な現実を前にして、次のように訴えています

 「神の名において戦争するということは、わたしにとってとても心苦しいことです。オサマ・ビンラディンとサダム・フセインは正義の味方の神を信じ、ブッシュも同じです。どちらの神がより強く、勝利をもたらすのでしょうか。神の力を引き合いに出すことは偶像を拝むことです。『暴力を正当化するために神のみ名を使ってはならない』と、ヨハネ・パウロ二世は何回も繰り返されました。戦争を正当化する前にまず、神のみ旨を問わなければなりません。そのとき、神は平和、和解、一致の側におられることを知るでしょう。……(中略)……『神が望まれるのだ』という叫びをもってなんと多くの罪悪が犯されるのでしょう!

  教会といえども過去において、十字軍や宗教裁判などの罪悪から免れませんでした。同じ十字架がいつも何も罪のない犠牲者の真ん中に打ち立てられるのです。人間を傷つけ、愛することを拒否して、主を十字架につけることをわたしたちはやめません。神には罪がなく、神は武装しておられない。わたしたちの権力志向を神に投影するようなこっけいな真似はやめましょう!」

 こうした言葉は、私たちのエゴがどれほど神様の御声を都合よく造り上げて、私たちを破滅に至らせるか、そして神様の平和、神様の御旨をこの地に成し遂げていくために、神様の御声に誠実に耳を傾けていくことがどれほど大事なことかを私たちにはっきりと教えてくれています。『置かれた場所で咲きなさい』という本で大きなブームを沸き起こしたノートルダム清心学園の理事長・渡辺和子さんは、御自身の色々な著書の中で、自分のわがままを抑えて他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらずに笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分の在り方を絶えず正し、自分のエゴに死んでいくことを「小さな死」というふうに表現して、これを、「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」ように、私たちの日々の生活にいのちと平和を生み出していくものとして大切にするよう人々に訴えていますが、神様は私たちの身近な平和から世界の平和に至るまで、これを成し遂げるために、このように私たちにエゴを捨て、御自分の御言葉に静かに耳を傾けるよう求めておられるのだと私は思います。

 実に、耳を傾ける姿勢は、私たちの信仰生活の中心に他なりません。神様がイエス・キリストを通して私たちに示してくださったその愛をいつも心に留めながら、神様がどれほど私を愛してくださっているか、そして私に何を悔い改めるよう求めておられるのかを尋ね求めていくことなしに、私たちは神様の御心を行っていくことはできないのです。今この一時、己にしがみつくすべての感情を降ろしましょう。そして、神様に心を豊かに開きましょう。この一週間も神様の御言葉に素直に耳を傾け、生かされて、神様の愛を広く告げ知らせていきたいと願います。

 祈りましょう。天の神様。あなたはパウロを通して、「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれる」のだという真理を私たちにお教えになりました。まことに、あなたはイエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、日々自らの罪に死に、新しい命に生きていくよう私たち一人ひとりを招いておられます。この招きに応えていくためには、たとえそれが耳の痛い言葉であったとしても、ただ謙虚にあなたの御声に耳を傾けなければなりません。そして、これが実に私たち多くの人々にとって、したくないことなのです。しかし、神様、十字架を抜きにしてあなたの恵みを考えることなどできないように、罪に死ぬこと抜きにはあなたの計り知れない恵みに与ることはできません。どうぞ私たち一人ひとり、自分にとって都合の良い恵みばかりを求めることのありませんように。あなたの御言葉に心を開き、すべてを委ねて、日々悔い改めと愛のうちに歩ませてください。この一言の祈りを、貴き主イエス・キリストの御名を通してあなたの御前にお捧げいたします。アーメン。

 

 
 
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