聖霊降臨節第19主日(2013年9月22日)説教要旨  
 

「備えられた時」
(マタイによる福音書20章1〜16節)
北村 智史

 標記の聖書個所(マタイによる福音書20:1〜16)は、イエスが「天の国」について譬えを用いて弟子たちにお話しになった場面です。この「天の国」という言葉について説明しますと、この「国」と訳されている言葉は、厳密には「王としての支配」と訳されるべき言葉に他なりません。したがって、イエスが「天の国」について語る時、それは、たとえば「『天国』っていうのはこういう所なんだよ」というふうに場所の説明をしているのではなくて、神様が王として恵みと力とを持ってこの世を支配される時が来る、その支配がどのようなものであるのかを人々に教えているのだということになるのです。

 このことを踏まえて改めて標記の聖書個所を読みますと、そこでは、やがて訪れる神様の支配のもとで人々に救いがどのようにして与えられるのかということが、たとえを用いて説明されていることが分かるでしょう。この譬え話の中で、「ある家の主人」は神様を、「賃金」は救いをそれぞれ意味しています。イエスはこの話を通じて、神様はその救いを、人がどれだけの行い、働きをしたか、その業績によって評価してお与えになるのではないということ、神様はただその御恵みにより、御自分が約束した救いをすべての人々に等しくお与えになるのだということを弟子たちにお教えになったのでした。

 救いは業績に依るのではなく、ただ私たちを無償で愛される神様の御恵みに依る。イエスのこうした教えは、業績主義の価値観が蔓延し、これによって人間が測られて、その陰で多くの人々が呻きの声を上げている今のこの社会のただ中にあって、とても大切な示唆を私たちに与えてくれているように思います。しかしながら、標記の聖書個所が私たちに示してくれる事柄は、これだけではありません。今を生きる私たちが、この個所でイエスが話された御言葉にしっかりと心を開いて耳を傾ける時、私はさらに別のメッセージがそこから聞こえてくるように思うのです。

  それは、神様は御自身の側から私たちのもとへとやって来られて、私たちを御自身の許へと招かれるのだということ、そして、私たちが神様に見出され、その招きに応える時期が早いか遅いかということは、神様の愛にとって、またその救いにとって何の問題にもならないということに他なりません。

  ここで私たちの信仰生活について振り返ってみれば、実に多くの方々が、信仰を持つようになった、教会に来るようになったそのきっかけについて、また、洗礼をお受けになった、教会に通うようになったその時期の遅さについて、コンプレックスのようなものを抱えておられるように私には思えます。実際、私自身振り返ってみましても、大学時代のある時期に、自分が信仰を持つようになったその動機について悩み、こんな自分が教会にいてもいいのかと悩んだことがありました。また、これまでたくさんの教会の方々と触れ合う中で、「この年になって教会に通い始めたというのは、あるいは、洗礼を受けるというのは、非常に恥ずかしいのですが……」といった声や、ようやく今になって教会に通えるようになったけれども、家庭の事情などでこれまで教会に通えなかったことを後ろめたく思う声など、自分の信仰にコンプレックスを感じてしまう声をお聞きする機会もたくさんありました。

  私たちが信仰生活の中でしばしば囚われてしまうこのようなコンプレックスに対し、イエス・キリストは標記の聖書個所を通して、どのようなきっかけの背後にも、そこには必ずこれに先立って神様の招きがあるのだということ、そして、この神様の招きに応えた時期が早いか遅いかにかかわらず、神様はすべての者を愛して救いへと至らせてくださることを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。神様が私たち一人一人に望んでおられることは、自分の信仰を恥じたり、思い煩ったりすることではなく、ただ神様が備えてくださったそれぞれの時に感謝の念を抱きながら、無償で救いを与えてくださる神様の愛と恵みに信頼して献身の道を歩んでいくことなのだということを、本日の聖書個所は私たちに伝えてくれているように私には思えます。

  たしかに、100人いれば100の信仰の証があるように、それぞれが信仰へと、また教会へと招かれたその時期やきっかけは、それぞれ異なっていることでしょう。人生の早い時期に神様から招きを受けた方もおられれば、比較的遅い時期になって招かれた方もおられます。そして、その招かれ方も実に様々です。しかし、いずれの場合にも、その背後には私たちのこと、私たちが抱えている事情をすべて御存じの上で、私たちが一人ひとり、最も輝いて信仰生活を送り、神様の栄光を表すことができるように、また多様な信仰の姿でもってお互いの信仰を育んでいくことができるように心砕かれる神様がいらっしゃるのだということを私は信じています。それぞれの信仰には神様によってかけがえのない意味が与えられているのです。

 イエス・キリストの十字架を通して、私たちすべての者に救いを与えてくださる神様。そのために、それぞれにふさわしい時と道を備えていってくださる神様。弱さと罪に溢れた私たちではありますけれども、この慈愛あふれる神様のもと、精一杯胸を張って、信仰の道を皆さんと一緒に歩んでいきたいと願います。
           

 
 
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