聖霊降臨節第22主日(2013年10月13日)説教要旨  
 

「和解について」
(創世記45章1〜15節)
北村 智史

 標記の聖書個所(創世記45:1〜15)はヨセフ物語のクライマックスとも言うべき個所で、ヨセフが他の兄弟たちと和解をする場面です。この中で、ヨセフは兄たちの残酷な行為のためにエジプトに売り渡されることになったその背後に、自分をエジプトの宰相として、飢饉が起こった時にヤコブ(イスラエル)の家族をエジプトに避難させて生き永らえさせ、大いなる救いに至らせようとする神様の人知を超えた取り計らいがあったことを兄弟たちに告げ、「今は、自分の行いを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」と兄たちを赦しました。そして、兄弟たちと涙ながらに抱き合い、和解を成し遂げたのです。

  ヨセフがこのようにして兄弟たちと和解するまでの間に、実に多くの葛藤が心の内にあったことは見逃せません。創世記42:9には、ヨセフがエジプトにやって来た兄たちと再会した時、「かつて兄たちについて見た夢を思い起こした」ということが記されていますが、ヨセフはこの時に自分がエジプトへと売り渡されてやって来たその背後にある神様の御旨のすべてを悟ったのではないでしょうか。そして、それは同時に、神様によって今兄弟たちと和解する時が与えられていることをヨセフが悟った瞬間でもあったのです。けれども、いかに神様の御旨がそこにあったとはいえ、ヨセフの心の中には、どうしても兄たちが自分にしたことを恨めしく思うわだかまりがあったことでしょう。それゆえ、ヨセフは様々に策を巡らせて、兄たちを試すことをせざるを得なかったのだと私は思います。しかし、兄たちの悔い改めは、ヨセフの心の中にあるこうしたわだかまりをすべて融かしてくれました。こうして、ヨセフは神様の御旨のままに兄たちを赦し、兄弟と和解することができたのです。

  こうした標記の聖書個所は、今を生きる私たちに何を教えてくれているでしょうか。それは、私たちが行う和解の業は、分裂状態にある双方が互いに自分の方から悔い改めと赦しとを与え合う協働の業なのだということに他なりません。ここで、私たちが隣人との間に分裂を起こしてしまった時のことを振り返ってみれば、そのような時、私たちは相手と和解するなんて無理だろうと勝手に自分で諦めてしまったり、相手にばかり悔い改めを求めたりしていることが多々あるように思えます。そしてこのような時、私たちは罪深いことに、神様が私たちと和解するためにどれほど心を砕かれて働かれたかを見失ってしまっているのです。

 ここで神様の和解の働きについて思いを馳せますと、神様はこれを成し遂げるために、まず御自分の御心を示した律法をイスラエルの人々にお授けになり、それでも罪を犯して御自分のもとからさ迷い出てしまう私たち人間のために、今から2000年前に御自分の愛する独り子イエス・キリストを十字架にかけて、イスラエルの人々のみならず、すべての人々を無償で贖われ、お救いになりました。

 ある神学者は、このように神様が私たち人間と和解を成し遂げられるまでのその曲がりくねった歴史を見ると、神様が私たちに向かって、「わたしはお前たちを創った、わたしの愛のすべてをお前に与え、お前を導き、支え、お前の心の望みが充たされることを約束した。お前はどこにいるのか。お前の応答は、お前の愛はどこにある。お前がわたしを愛するようになるために、他にわたしは何をすべきなのだろうか。わたしはあきらめない。働き続ける。どれほどわたしがお前の愛を待ち望んでいるか、いつの日にかお前もわかるだろう」と叫んでいるようだと語りましたが、神様は私たちと和解するために御自身の方から赦しを与え、さらにこの和解を深めていくために、今もなお私たちに惜しみのない愛を与え続けて、私たちがこれに応えるのをひたすら待っておられるのです。

 このことに関連して、聖路加国際病院理事長の日野原重明さんは、その著書の中で、「本当の愛というのは、辛いことだけれども、ゆるすということを相手に先に望むのではなくて、私たちがイニシアティブを持つのだということです」と語り、また、「私は『愛すること』の裏には、血の出るような苦しい自己犠牲、あるいは『恕し』があるのではないかと思うのです。ある人は私にこんなことをした、その人をゆるすなどとんでもないと思い続けて、相手の心は何年待っても変わらないことがある。そうならば、自分の心のほうを変えてみる。それが愛の基本的なアプローチの仕方であって、それには大変辛い思いがあるでしょう」と述べ、「『ゆるし』とは、人を信じて耐えて待つ『愛の心』」だと定義づけておられます。

  たしかに私たちには、こちらがどれほど和解したいと願ってアクションを起こしても、相手がなかなか振り向いてくれないというような厳しい現実もあれば、下手にアクションを起こせばそれに乗じて相手がやりたい放題してくるというような難しい現実もあることでしょう。しかし、それでも隣人との間に分裂が生じてしまった時には、神様が和解の時を必ず備えてくださると信じ、また、相手の内側で少しずつでも何かが確実に変わっていくことを信じて、神様のように諦めることなく、自分の方から率先して愛と赦しと悔い改めとを示し続けていきたい。そうして、和解という一つの道を互いに協力し合って一緒に歩んでいきたいと願います。

 
 
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