待降節第1主日(2013年12月1日)礼拝説教要旨  
 

「救いは必ず来る」
(イザヤ書51章4〜11節)
北村 智史

 イザヤ書全体は、1〜39章を第一イザヤ、40〜55章を第二イザヤ、56〜66章を第三イザヤというふうに、異なる歴史的背景を持った3つの大きなまとまりに分けて考えられます。標記の聖書個所(イザヤ書51:4〜11)が含まれています第二イザヤは、B.C.539年にペルシャ王キュロスがバビロンを占領するその直前から活動を始めて、バビロン捕囚の帰還の先頭に立った、第二イザヤと仮の名前で呼ばれている預言者の預言集になっているのですが、この第二イザヤの時代、それもB.C.538年にキュロスの勅令によってイスラエルの人々に祖国帰還と破壊されたエルサレム神殿の再建が許された後は、イスラエルの人々の間には、この祖国帰還を巡って非常に激しい対立が起こりました。第二イザヤを先頭に祖国に帰ることを訴える少数のグループに対して、多くのユダヤ人たちが、半世紀にわたって築いてきたバビロニアでの生活を捨てて、危険の多い荒れ野をよぎって荒廃した祖国に戻り、これを立て直していくということを厭い、バビロニア・ペルシャの領内に留まることを主張したのです。結果、祖国に帰還した者は少数に止まり、多くの者はその地に留まることを選んで、ユダヤ人のいわゆるディアスポラ (=離散民) としての歴史が始まっていくのですが、標記の聖書個所は、こうした祖国帰還を巡る激しい対立を背景にして書かれました。

 この中で、第二イザヤは、心ならずも住み慣れてしまった捕囚の地を離れ、荒れ野をよぎって荒れ果てた祖国に帰っていくという、行く手に数多の艱難辛苦が予測される旅路に不安を覚える人々に、「人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」と、捕囚の地に留まろうとする人々の批判に遭っても決して動揺することのないように戒め、そして、人々に何度も何度も神様の救いについて語り、その確かさを訴えました。

 また、彼はイザヤ書51:10の言葉で、神様が力強い御腕でもって歴史の中を働かれた出エジプトの出来事を人々に思い起こさせ、今、出バビロニアとも言うべきこの祖国帰還においても、必ずや神様は力強い御腕でもって働き、自分たちを救いに至らせてくださることをも人々に懸命に訴えました。

  第二イザヤのこうした懸命な訴えの背後には、御自分のもとに帰って来るようにと願われる神様のその想いを裏切ってはならないとする、彼の強い気持ちがあったことでしょう。
こうした標記の聖書個所は、今を生きる私たちと決して無関係のものではありません。なぜなら、解放が告げられても、なお捕囚の状態に安住しようとして、なかなか神様のもとに立ち帰ろうとしないかつてのイスラエルの人々の姿が、キリストの福音が告げ知らされても、なお罪に捕らわれた状態のままで留まろうとする今の私たちの姿と重なるからです。

 このことに関係することですが、ある牧師はクリスマスの時期になるといつも心の中をよぎるある疑問について、こんな言葉を述べています。「古くから教会はクリスマスにこんなメッセージを語りつづけてきました。神の独り子が生まれた。世界の救い主、平和の君、弱く貧しい人々の希望、新しい世界の主がやって来た。私たちの救いが成就した。神はその約束を果たされた。……(中略)……けれども、そのような救いと解放、喜びのもたらし手である御子イエス・キリストが生まれたにもかかわらず、いまだに世界には数多くの矛盾が満ち溢れています。……(中略)……キリストの誕生は何ひとつ問題を解決していないようにさえ見えます。二〇〇〇年前も今も、同じように人々の苦しみは残っており、不平等な世界であり、ある意味では、もっと複雑でもっと悪くなっているようにさえ見える現実がそこここにあるのです。」

 私たちをお救いになるためにイエス・キリストがこの世に来られたにもかかわらず、なぜ今もなおこの世界に悲惨な現実が存在し続けているのか。こうした疑問は素朴なものでありながら、ともすれば私たちにとって信仰の躓きとなりかねない厄介な疑問です。こうした疑問に対して、本日の聖書個所は、それはイエス・キリストの十字架と復活による贖いによって罪の裁きを免れて、罪の縄目から解き放たれていながらも、なお私たちが罪の中に留まり続けてしまっている結果なのだという一つの答えを与えてくれているのではないでしょうか。

 神様は今から2000年前に御自分の愛する独り子イエス・キリストをお遣わしになり、彼を十字架につけて私たちの罪を無償で赦してくださいました。しかしながら、これで神様の業がすべて終わったわけではありません。私たちは皆、神様のもとに立ち帰っていくその途中の道を一人ひとり歩んでいるのであり、神様は私たち一人ひとりをその力強い御手で支えながら、それぞれが御自分のもとに帰って来るのをひたすら願い、待っておられるのです。私たちが罪と向き合い、この現実を乗り越えていくのは、数多くの艱難辛苦が予測されるとても厳しい道程であるかもしれません。それでも、イエス・キリストによって約束された救いの確かさを信じ、必ずや神様は私たちを救いに至らせてくださるという強い信仰を持ち、その希望に生かされて、神様のもとに立ち帰っていきたい。そうして、終わりの日には神様に労苦の涙を拭われて、皆で一緒にその御懐に抱かれたいと願います。

 
 
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