待降節第5主日(2014年1月26日)礼拝説教要旨  
 

「愛するという選択」
(ルカによる福音書15章25〜32節)
北村 智史

 ルカによる福音書15:11〜32は「『放蕩息子』のたとえ」として知られている有名な譬え話ですが、イエスのこの譬え話は厳密には「二人の子を立ち返らせる父の愛の譬え」と小見出しが打たれるべきものであって、この話には標記の聖書個所(ルカによる福音書15:25〜32)で、弟と同じように父なる神の御心に立ち返ることを必要とする兄の物語もまたしっかりと記されています。

 この物語の中で、兄は父親の弟への態度に非常な憤りを感じました。ではなぜ、兄は憤ったのでしょうか。その理由は、29〜30節に記されている父親への兄の非難の言葉から窺えます。

  「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

  この言葉には、自分はずっと父親の近くにいて、毎日一生懸命働いて勤勉に奉仕を続けてきたにもかかわらず、受け取って然るべき何の報酬も受け取ってこなかった、それなのに、父親は放蕩の限りを尽くしてきたあの弟には無償で子牛を与えたという兄の妬みがはっきりと滲み出ています。そして、兄はこの妬みのゆえに、自分は弟より愛されていないという憤りに心を囚われていったのです。

  このような兄に対して、父親は自分の方から寄り添いました。父親は「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と、自分が弟と同じように兄をもこの上なく大切に思っていることを伝えて、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と、兄として、家族として帰って来た弟を拒絶してしまわないように、愛と赦しの心で弟に両手を差し伸べることをついには拒否してしまわないようにと丁寧に諭したのです。
ここには、妬みや怒り、不満、恨みといった人間的な思いに閉じこもって、いつしか自分に与えられている神様の愛を見失い、他人の罪にばかり目を向けてしまう私たちの罪と、そのような時に、すべての者を家族のように愛している御自分の愛を思い出すように、そして隣人に対する愛と赦しの心を見失わないようにと私たちに優しく、しかし懸命に呼びかけられる神様の姿が描かれているように私には思えます。

  こうした兄の物語は、今の私たちに何を教えてくれているでしょうか。私にとって、それは人間の自由に関する事柄に他なりません。私たちは、恵まれていることには何一つ目を向けず、ただ人間的な思いに閉じ籠って隣人を愛さないという自由を自らの意思で選び取ることができます。でもその一方で、私たちは微笑みづらい人に微笑んだり、自分を否定する人を思いやったりと、およそ愛することが難しいと思えるような状況の中にあっても、なお隣人を愛するという自由を自らの意思で選び取ることもできるのです。そして、私たちの日常を振り返ってみれば、教会の内外を問わず、およそ人と人とが触れ合う所では、なんと頻繁にこうした選択を迫られていることでしょうか。そして、なんと愛さない自由を選んでしまっていることでしょうか。

  「平和はほほえみから始まります。笑顔なんてとても向けられないと思う人に、一日に五回は、ほほえみなさい。平和のためにそうするのです」と語ったマザーテレサが、同時に「お互いにほほえみ合いなさい。でも、それはいつも簡単にいくとは限りません。ときには、わたしもシスターたちにほほえむのがむずかしく感じることがあります」と、その困難さについても語っているように、他でもない私を赦し、愛してくださっているイエス・キリストに従って、自らも愛する自由を選んでいくことは、ある意味ではとても大きな忍耐と自己犠牲を強いる信仰の闘いとも言えることなのかもしれません。しかしながら、こうした闘いの中で、自分が期待することを返してくれるから愛する、そうでないから愛さないというのではなくて、愛されることを期待せずにただ忍耐の中で隣人を愛することができた時、私は父なる神様の御腕の中に立ち帰って、「よく頑張った」と温かな微笑みで抱き締められるかのように感じることがあるのです。

  私たちにとって自由とは、たとえどのような環境の中にあっても、神様の御腕の中に自分が立ち帰っていくことを選び取って行くことができるということなのではないでしょうか。私たちが罪と弱さから抜け出すことができず、どのようにして隣人愛に生きたら良いのかが分からなくて神様の家の外で立ち尽くす時、私はただ神様が寄り添って諭してくださるその御声に耳を傾けたいと願います。そして、神様の無償の愛に立ち帰っていきたいと願います。神様は私たちを抱き締めるために、いつでも諸手を広げて私たちの帰りを待っておられるのです。

 
 
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