待降節第6主日(2014年2月2日)礼拝説教要旨  
 

「私の心を祈りの家に」
(マタイによる福音書21章12〜17節)
北村 智史

 イエスが生きておられた当時、神殿には異邦人はここまでしか入れない、女性はここまでしか入れないといったような入場制限による差別、商売による異邦人の礼拝への妨害、障がい者に対する排除等、神様の御心に沿わない現実がはびこっていました。本来はすべての人々にとって「祈りの家」となるべき神殿にこのような不正義がはびこっているのを見て、イエスは「神殿の境内」、すなわち「異邦人の庭」で「売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され」ました。そして、決まりを破って必死に御自分のそばへとやって来た「目の見えない人」、「足の不自由な人」をお癒しになって、彼らに神様に近づく道を開かれました。イエスのこうした行動は、怒りに任せた衝動的なものでは決してなかったように私には思えます。

 マルコによる福音書21:13で、イエスは「あなたたちは神殿を強盗の巣にしている」と人々を非難しましたが、実はこの「強盗の巣」という言葉は、エレミヤ書7:1〜15を背景にした言葉に他なりません。この中で、預言者エレミヤは、神様を礼拝さえしていれば正義を行わなくてもよいとして、神殿で神様の御心に沿わない不正義が行われ続けるならば、神様御自身が裁きを降して神殿を破壊されることをイスラエルの人々に預言していました。イエスがこの預言を彷彿させる言葉をここで語っていることを思えば、私はイエスが標記の聖書個所(マタイによる福音書21:12〜17)で、このように過激な行動を取られたのは、エレミヤの預言が今まさに御自分において成就したことを人々に告げ知らせる、デモンストレーションだったように思うのです。「神様を礼拝しながら、ある特定の人々を排除しているような不正義に溢れたこの神殿を私は退ける。これからはあなたたちは、私において神様と出会うのであり、私のもとで誰一人排除することなく、正義を行いながら神様を礼拝するようになりなさい」。御自分の行動を通して、イエスはこのようなメッセージを人々に訴えられたのではなかったでしょうか。

 イエス・キリストは、すべての人々を神様の礼拝に招いておられる、そしてその礼拝において正義を求めておられる。本日の聖書個所を通して示されたこの事実は、今を生きる私たちにとってとても大切なことではないでしょうか。

 このことに関連して、私は一昨年、2012年の夏にアメリカを騒がせたある一つのニュースを頭の中に思い浮かべます。それは、ミシシッピー州のある教会で、一組のカップルが黒人であることを理由に挙式を断られたという内容のニュースです。信徒のほとんどが白人であるこの教会では、1883年に教会が創立されて以来、黒人の結婚式は一度も執り行われたことが無く、その時、求道者であった黒人のカップルが挙式のために教会を使うということに一部の信徒が難色を示し、「もし二人を結婚させれば、投票で牧師をこの教会から追い出すようにする」と牧師に脅しをかけて、牧師がこれに屈服する形で二人の挙式を断ったということでした。挙式を断られ、やむなく別の教会で式を挙げることになったこのご夫妻は、メディアの取材に対して、「牧師が困難な立場にいたことは理解するが、彼は自分たちのために立ち上がらなかった」、「他の信徒も知っていても、立ち上がってはくれなかった。彼らは自分たちをキリスト教徒と信じているようだが、そうではない」と怒りを露わにしておられます。

 このニュースを目にした時、私は素直に、こうした不正義を抱えて捧げる共同体の礼拝を、神様ははたして喜んでお受け取りになるだろうかということを思わされた次第です。ここで神様の恵みについて考えてみれば、私たちは一人ひとり、たしかに神様の恵みによって、価無く無償で救いへと招き入れられているのでしょう。けれども、この恵みは私たちが神様のもとで怠惰に過ごして、罪の赴くまま不正義を行い続けるために与えられたものでは決してありません。神様の恵みに甘えて、私たちが不正義を抱えたまま神様に礼拝を捧げ続けるなら、神様はいつの日かその礼拝を受け取ることを拒否されるということを、標記の聖書個所は私たちに警告してくれているのではないでしょうか。

 たしかに、私たちは一人ひとり罪人であり、どれほど神様の御心に沿った歩みを為そうとしても、何度も何度もそこから零れ落ちてしまう弱さと欠けを抱えた存在です。けれども、ある神学者が語っているように、礼拝とは、「この世の中をさまよい、様々な力にさらされながら生きている私たちが、七日目ごとに必ず立ち帰る『父の家』」に他なりません。礼拝のたびに神様の正義に立ち帰っていきましょう。そして、私たちの心を神様を宿すにふさわしい祈りの家として、神様の愛で清めて整えていただきましょう。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。かつてパウロが、ローマの信徒への手紙の中で語ったこのような礼拝を皆さんと一緒に捧げていきたい。そうして、神様の愛と正義に輝いた姿で、すべての人々を神様の御許に招いていく、そのような共同体として教会を皆さんと一緒に建て上げていきたいと願います。

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.