復活節第6主日(2014年5月25日)説教要旨  
 

「人間の可能性」
(創世記18章20〜33節)
北村 智史

 標記の聖書個所(創世記18:20〜33)は、アブラハムがソドムという町のために神様に懸命に執り成しをする場面です。このようにアブラハムが必死に神様に執り成しをした背景には、ソドムに住んでいた甥のロトを何とかして裁きから救い出したいと願う気持ちがあったことでしょう。しかし、私はそれだけが、アブラハムがソドムのために必死に神様に執り成しをした理由ではなかったと思います。そこには、甥のロトだけではなく、悔い改めに期待して、ソドムの町すべての人々を裁きから救いたいと願うアブラハムの気持ちがあったのではないでしょうか。だからこそ、アブラハムは、「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と神様に正義を求めつつも、「どうか正しい者は滅ぼさずに、悪い者だけを滅ぼしてください」と神様にお願いをするのではなくて、「どうぞ正しい者のために、悪い者も含めたすべての者をお赦しください」と、24節のように神様に問いかける形でお願いをしたのだと私は思います。「正しい者は四十五人しかいないかもしれません。四十人しかいないかもしれません。三十人しかいないかもしれません。…………神様、それでもあなたはすべての者を滅ぼされますか。どうぞすべての者をお赦しください」と神様に食い下がっていくアブラハムの姿からは、罪人を裁きから救うために熱心に神様に執り成しをする偉大な信仰者の姿が浮き彫りとなっています。
  アブラハムのこうした執り成しは、まさにイエス・キリストが十字架において私たちのために為された執り成しのひな型になっているのではないでしょうか。ここで聖書に描かれている私たち人間の姿を振り返ってみれば、それは神様が何度力強く救いの御腕を伸ばされても、その度に罪を犯し、神様のもとからさ迷い出て行ってしまうどうしようもない罪人として描かれています。しかしながら、そのような罪人として描かれている人間であっても、たとえば中風で苦しむ友人のために、人の家の屋根をはがしてまでイエスのもとにその人を連れて来て癒しを願い求めたり、イエスに高価な香油を注いで奉仕をしたりと、時には神様の御心に適うことを行いもするのです。「その人間の神様の御心に適う部分というのは、罪の部分と比べれば、こんなにも少ないかもしれない。あるいは、もっと少ないかもしれない。けれども、自分が犠牲になり、裁きをすべて引き受けるから、神様、自分の愛によって変わっていく人間の悔い改めの可能性を信じて、すべての人々をお赦しください」。アブラハムの神様に対する執り成しについて思う時、私には、イエス・キリストが十字架の上で私たちのために為された執り成しが、こんなふうに神様に訴えるものではなかったかと思えてくるのです。
  では、私たち人間はイエスのこの熱心な執り成しに応えて、どれほど豊かに悔い改めを捧げているでしょうか。
  ここで私たちが生きている今のこの世界を振り返ってみれば、私たちは今まさに人間の罪によって、平和が大きく脅かされていることに気が付くでしょう。内戦の様相を呈しつつあるウクライナ、タイの軍によるクーデター、新疆ウイグル自治区のウルムチで再び発生した無差別爆破事件、台湾の地下鉄で起きた通り魔事件、放射能の恐怖に苛まれ続けている福島の現実等々。
  こうした現状を前にしますと、私は今こそ神様の御前に人間の可能性が問われているのではないかと思うのです。たしかに、天地を創られた神様にとっては、私たちの悔い改め、協力が無くとも、ある時に突然それまでの世界を打ち壊し、一新して神の国を来らせることがおできになることでしょう。イエス・キリストが十字架の上で、あれほどの苦しみの末に私たちのために神様に執り成しをしてくださったにもかかわらず、結局私たちが自らの罪を悔い改めることをせず、そのためにこの世界が神様の御心に沿ったものへと一向に変わっていかない時、あるいは神様の御心からどんどんとかけ離れて行ってしまう時、神様はそれでも最終的にはただイエス・キリストの贖いのゆえに、そのようにして御自分の救いを成し遂げられるのだろうと思います。
  しかしながら、そのように空しく救いを成し遂げることが、神様の本意なのではありません。たとえ救いの最終的な完成がキリストの再臨の時にすべてを一新するという方法によるのだとしても、神様はその時まで私たちと一緒にこの世界を神の国に近づけていきたいと切に願っておられるのだと私は思います。
  今から2000年前に、イエス・キリストは人間の神様の御心に適うわずかの部分と、御自分の愛によって変わっていく人間の可能性を信じて十字架にかかり、私たちの罪を執り成してくださいました。私たちには、このように自分たちを愛してくださった、絶対にその期待を裏切ってはならない、そして悲しませてはならない御方がいるのです。世界中の至る所で神様の平和が大きく脅かされている今こそ、イエス・キリストの偉大なる執り成しを深く心に留めましょう。そうして、悔い改めの輪を世界中に広げて、皆で一緒に神の国を来らせる神様の御業に協力していきたいと願います。

 
 
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