聖霊降臨節第7主日(2014年7月20日)説教要旨  
 

「古き自分からの脱却」
(ガラテヤの信徒への手紙5章2〜11節)
北村 智史

 本日は聖書の中から、ガラテヤの信徒への手紙5:2〜11を取り上げさせていただきました。新約聖書の中には使徒パウロの名前で書かれた文書が13書含まれていまして、その一つ一つについて、それが本当にパウロによって書かれたものであるのかが問題になるのですが、このガラテヤの信徒への手紙は本当にパウロによって書かれたものと考えられている文書です。この手紙の冒頭1:6〜7で、パウロは、「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り変えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」と、非常に厳しい言葉をガラテヤの教会の人々に対して投げかけていますが、パウロがこの手紙を執筆したその背景には、当時ガラテヤの教会の人々が直面していたある問題がありました。
パウロがガラテヤの地で福音を告げ知らせ、そこを立ち去った後、ガラテヤの教会には、あるユダヤ人キリスト者のグループが入り込んで来たのです。彼らは、異邦人でありながらキリスト者となった人々に、律法を守ること、特に割礼を受けることを説いて迫った、「福音のユダヤ化主義者」、「割礼派」とでも言うべき人々で、彼らの教えによってガラテヤの教会の人々は、一度受け入れたパウロの福音信仰から離れつつありました。こうした事態を前にして、パウロはガラテヤの教会の人々に改めて正しい福音理解を説き、またそれにふさわしい生き方を示して、彼らがキリスト者としてふさわしい福音信仰に立ち戻るよう軌道修正するためにこの手紙を書いたのでした。
  本日の聖書個所でも、パウロは、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と、救いが決して律法の遵守によるものではないこと、救いはただイエス・キリストの十字架による贖いを信じる信仰によってのみ与えられるものであることを語り、ガラテヤの教会の人々を惑わすユダヤ人キリスト者のグループを厳しい言葉で告発しています。律法を守ることによって救われようとするならば、人は律法全体を守り行わなければならないが、それは人間の罪の性質上不可能であり、人を律法の奴隷状態にするだけである。しかしながら、イエス・キリストは十字架の恵みによって、もはやすべての人を無償で救ってくださった。そして、すべての人を背負いきれない律法の軛から自由にしてくださったのだ。だから、割礼、律法遵守を説く、そして人を再び律法の奴隷状態に逆戻りさせるようなユダヤ人キリスト者のグループの教えに惑わされることなく、信仰義認の福音にしっかりと立ち、この福音の恵みに背中を押されて、大胆に愛を、神様の御心を行っていこう。これが、本日の聖書個所に込められている、パウロのガラテヤの教会の人々に対するメッセージでしょう。
  こうした本日の聖書個所を読む中で、私はふと、異邦人でキリスト者となった人々に、律法を守ること、特に割礼を受けることを説いて迫ったユダヤ人キリスト者のグループのことを考えさせられました。パウロによって厳しく批判されている彼らですが、彼らは別に、ガラテヤの教会の人々を福音信仰から脱落させてやろうとか、そうしてガラテヤの教会をめちゃくちゃにしてやろうとか、そんな悪意を持っていたわけではなかったでしょう。しかし、彼らは、イエス・キリストの福音に触れて、「もうあなたは救われているんですよ。だから、救いについては何も心配せずに、自由に愛に生きていったらいいんですよ」と言われても、「やはり律法を守らなければ、そうして神様の御心に適う自分とならなければ、救われないんじゃないか」と、古いユダヤ教の応報思想の価値観、業績主義の価値観から抜け出すことができずに、主にある新しい生き方に踏み出すことができずにいた人々だったのだと私は思います。
神様の御心に適う自分でなければという応報思想の価値観、業績主義の価値観に囚われてしまって、イエス・キリストの愛に全てを委ねて生きていく新しい生き方に踏み出すことができない。今から2000年前にユダヤ人キリスト者のグループが陥ってしまったこのような信仰の躓きは、今の私たちの信仰と決して無関係のものではありません。なぜなら、今の私たちもまた、すべての者を無償でこの上なく愛してくださるキリストの福音に触れながらも、「自分は神様の御心に適う存在ではない。そんなに立派な信仰生活をしていない。こんな自分に神様に愛される価値があるだろうか」と不安に思ったりして、神様の愛に自らを委ねていけないことがしばしばあるからです。
  ルカによる福音書18:9〜14には、ファリサイ派の人と徴税人が祈るために神殿に行き、ファリサイ派の人は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」とお祈りし、徴税人は、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とお祈りした、そうして、義とされて家に帰ったのは、この徴税人の方だったというイエスの譬え話が出てきますが、私たちの信仰において、神様の御前に罪を認める謙虚な心というものはたしかに大切にされなければならないし、こうした心が無ければ、私たちは神様のもとで新しい自分に生まれ変わっていくことはできないでしょう。しかしまた、同時に、たとえ自分がどのようであっても、どのような罪、どのような弱さ、欠けを抱えていても、そのような自分をありのままで受け入れて愛してくださる神様の無限の愛に対する信頼の心が無ければ、私たちはやはり神様のもとで新しい自分に生まれ変わっていくことはできないのです。
罪を認める謙虚な心と、その罪をも包んでくださる神様の愛に対する信頼の心。神様のもとで日々罪に死に、新しい自分に蘇っていく、生まれ変わっていくには、この二つの心のバランスが大事でしょう。神様の愛に対する信頼の心を見失ってしまうほど、自分を卑下してしまう生き方を私たちがすることなど、神様は望んではおられません。私自身振り返ってみましても、思えば、私は高校三年生の頃に信仰の種を蒔かれてから、随分と神様のもとで自分を良い方向へと変えられていったと思うのですが、こんなふうに自分が変えられ始めていったのは、欠けだらけ、弱さだらけの自分をありのままで受け入れてくださる神様の愛を信じることができるようになってからだったと記憶しています。
  省みて、私たちは普段、どれほど神様の愛に自らを委ねることができているでしょうか。神様はいつも、「私の愛を受け入れて。そうして、私と一緒に罪を、弱さや欠けを乗り越えていこう」と、私たちの心をノックしておられます。自分がどのようであっても、どのような罪や弱さ、欠けを抱えていても、臆することなく、この御声にいつも耳を傾けながら、神様の愛に自らを委ねていきましょう。そうして、神様の御心に適う自分へと変えられていく信仰生活の喜びにみんなで一緒に与っていきたいと願います。このように、日々罪に死に、新しい自分に蘇っていくことで、私たちは終わりの日に神様のもとで完全な自分に蘇る救いを、今先取りしていくのです。

 
 
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