待降節第15主日(2014年9月14日)礼拝説教要旨  
 

「キリストにある希望」
(イザヤ書51章4〜11節)
北村 智史

 死というものは誰も経験したことが無い、私たちの理解の範疇を大きく超えた領域の出来事でありますから、私たちが死というものについて考える時、非常に多くの者が自分の存在が無くなってしまうのではないかとか、皆と永遠に会うことができなくなってしまうのではないかとかいったように、様々な恐れをそこに感じてしまうのではないでしょうか。
聖書では、ロマ書5:12に、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と記されているように、死はアダムが犯した人間の原罪の結果、私たちすべての人間にもたらされた神様の裁き、呪いであるとされています。アダムは罪を犯した、その子孫である人間はすべて本来的に神様に背いてしまう罪を持った存在 (罪人) であり、その裁きとして人間は死に、神様から関係を断ち切られてしまう。考えてみれば、こんなに恐ろしいことはないでしょう。このような死でありますから、イエスもまた十字架の出来事を前にしてゲッセマネで恐れと苦悩に囚われて、「この杯をわたしから取りのけてください」と神様にお祈りし、十字架の上で息を引き取る時にも、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と苦悩の内に叫ばれたのです。
このように、私たちにとって死というものは、神様からも愛する者からも引き離されてしまう完全な終わりであって、決して良いものではありません。ですから、私は死を前にして神様の愛に信頼し、少しも恐れることがないというのはとても強くて立派な信仰だと思うわけですけれども、同時に、死を前にして恐れる気持ちが本能的に湧き起こってくるのも、ある意味ではごく自然な反応であって仕方のないことだと思うのです。
  しかしながら、このように恐ろしい、私たち人間にとって最大の敵とも言える死よりも、神様の愛は強いものでした。御自身の方から私たちと和解したいと切に願われた神様は、今から2000年前にイエス・キリストを人としてこの世にお遣わしになり、彼に呪いと裁きのすべてを負わせて私たちの罪を無償で贖い、私たちに永遠の命をお与えになって、すべての者が御自分のもとで再び相見え、安らかに憩うことができるようにしてくださったのです。この神様の愛のもとで、死が持っているすべての恐れが覆されていきます。すべての完全な終わりであり、裁きであり、絶望でしかなかった死が、永遠の命への入り口、救い、また希望へと完全に変えられたのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死に対する完全な勝利。これこそ、神様の愛によって私たちが与った大きな希望に他なりません。
  こうした希望の光の中で、私たちは死を巡って、神様からある一つの招きを受けているのではないでしょうか。それは、自分の死を愛する者への人生最後の贈り物とするという召しに他なりません。このことに関連して、ヘンリ・ナウエンという神学者は、「罪のないイエスがわたしたちのために十字架の上で死んでくださり、そのことによって天の父に至る道を開いてくださったと信じることだけが、わたしたちをキリスト者たらしめているのでは」ない、「イエスに従って歩む中でわたしたちもまた、自分の死を他者のための死とすることを求められている」、「イエスとの結びつきのうちに死ぬ者は、イエスの死の中にあるいのちを与える力にあずかる」のだと語っています。実際、私はこれまで教会で奉仕をさせていただき、様々な方の死に寄り添わせていただく中で、その方の死が決してそこで終わらずに、やがては時の経過の中で、地上に残された方々に良き感化をもたらすものとなったり、彼らを教会へ、また洗礼へと導くものとなったりして、思いがけない形で実っていくのを何度も目撃することがありました。ヨハネによる福音書12:24で、イエスは御自分の死について、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われましたが、死に勝利を賜るイエスの愛に輝いて生きる信仰者の死もまた、残される人々に豊かな多くの実りをもたらし、信仰の種を蒔いていくのです。
  無論、私たちはどれほどこのように死を迎えたいと願っても、なかなかその通りにはいかないという現実はたしかにあります。けれども、神様の愛に抱かれつつ、自分の死が残される人々の中で豊かに実を結んでいくようにできるかぎりの備えをしておく責任は、私たちには存在しているように思えます。そのために、昨年当教会で教会員の方々に配布いたしました葬儀の備えを活用していただければ幸いです。
イエス・キリストはあれほど恐ろしい私たちの死を打ち破ってくださった。そうして、自分の死を愛する者への最後の贈り物とする豊かな深い道を拓いてくださった。それゆえ、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」のである。キリストにあるこの力強い希望に生かされつつ、今この時を神様の愛に輝いて精一杯生きていきたいと願います。

 
 
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