降臨前第9主日(2014年10月26日)説教要旨  
 

「苦難の中でイエスを見よ」
(ヨブ記 38章1〜18節)
北村 智史

 標記の聖書箇所(ヨブ記38:1〜18)は、苦難の中、その意味を求めて神様と直接論争がしたいと訴えるヨブの訴えに応えて、ついに神様がヨブの前に御自身を現された場面です。注目すべきは、この聖書箇所から始まる長い言葉の中で、神様が人知を遥かに超える御自分の創造の御業と支配についてお話しになるだけで、肝心のヨブの問い、すなわち、「なぜ私がこれほど苦しまなければならないのか」、「何か自分に罰を受けて然るべき罪や悪があったのか」という問いには、何一つ答えてはおられないということでしょう。
私たちは苦難の中で、ヨブが葛藤したように、「なぜ私がこのような目に遭わなければならないのか」と苦悩して、様々なアイデアを考え出します。「何か自分が悪いことをしたからだ」、「何か深い神様の御旨があるんだ」、「信仰が試されているんだ」、「神様は実はひどい方なんだ」等々。しかしながらこのような考えも、私たち人間が自分で納得を得るために、考えることのできる狭い枠の中で勝手に考え出した思想に過ぎないことを思わされます。ヨブ記においてもこのような問いに対する直接的な答えが何一つ記されていないことを思えば、結局のところこうした問いに対する答えは神様にしか分からない領域のものなのでしょう。
  しかし、求めていた答えは何一つ与えられませんでしたが、神様と直接出会うことによって、ヨブの心の騒ぎは治まりました。そうして、ヨブは神様を畏れ敬いつつ、人間の浅はかな知恵の中で「神様は私に非道なことをしている」と責めていたことを悔い改めて、神様の御前にひれ伏したのです。そして、神様はこうしたヨブの態度を良しとされました。
  こうしたヨブ記のお話は、私たちが苦難に直面する時、人間の浅はかな知恵から神様を責めるのでもなく、また「自分に罪があったのだ」と、自分を責めてまで神様を正当化しようとするのでもなく、ただ神様に出会うことこそ唯一私たちの心を鎮めてくれる方法であり、神様の御旨に沿うことだということを私たちに教えてくれているように思えます。では、今を生きる私たちははたして、どこで神様に出会うことができるのでしょうか。それは、イエス・キリストにおいて、また、彼に従って私たちが互いに行う隣人愛においてに他なりません。
  ヨハネによる福音書1:18には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と、イエス・キリストこそ神様がどのような方であり、どれほど私たちのことを愛してくださっているかを私たちに伝えてくださる神様からの「言」であるとする、そのような御言葉が記されています。この御言葉に従ってイエス・キリストが歩まれた地上での生涯を振り返ってみれば、イエス・キリストが生きておられたその当時にも、病気や障がい、飢え、貧困など、「なぜ私がこれほど苦しまなければならないのか」と問いたくなるような、様々な苦難の現実が溢れていました。そして、イエス・キリストは一貫してこうした苦難の中に置かれている人々に寄り添って生きられたのです。一人息子を亡くした未亡人の苦しみに寄り添い、召使いが病気になったローマの百人隊長に心から同情されました。ラザロが病気で亡くなった時にも、ラザロのことを思い、またその姉妹であるマルタとマリアの悲しみを思って憐みの涙を流されました。御自分の御心に反して人々を苦しめるユダヤ教の律法主義体制を批判し、これに徹底して抗い、そしてついには、すべての人々を苦難から、また滅びから救うべく、御自分を十字架の上で犠牲にされました。イエス・キリストを見れば、私たちは苦難の中、私たちと同じように苦しみ、そして懸命に寄り添い、支え、救おうとされるインマヌエルの神様とその愛に出会い、波立つ心を鎮められます。
  また、ヨハネの手紙一4:12には、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」と、神様が愛の中でこそ、私たちに豊かにその姿を現されるのだということが語られていますが、私自身振り返ってみましても、「なぜ」と問いたくなるような苦難の中で、それでも信仰を同じくする友からの心の籠った愛を受けて、「この交わりの中に、たしかに神様が共にいてくださっている。そして、私を支えてくださっている」と感じて、心を慰められたことが何度もありました。
  「神様がいらっしゃって、なぜ苦難というものが起こるのか」。それは結局のところ、神様以外誰にも分かりません。けれども、たとえ答えが分からなくても、神様を恨むでもなく、「自分が悪かったのだ」と自分を責めてまで神様を正当化するのでもなく、他でもない私の救いのために十字架でその血を流されたイエス・キリスト、この方を仰ぎ見て、互いに愛し合いながら神様と出会っていく時、私たちの心は鎮まりを得て、神様と一緒に苦難を乗り越えていく再出発の道が備えられていきます。苦難の時には、いつもイエス・キリストに立ち帰りましょう。そうして、互いに愛し合う交わりを深めていきましょう。やがて御国が成るその日まで、神様と一緒に、心強くこの世に起こるあらゆる苦難を乗り越えていく者でありたいと願います。

 
 
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