クリスマス燭火礼拝(2014年12月24日)説教要旨  
 

「神様は、貧しく小さくされた人々と共に」
(ルカよる福音書1章26〜38節、2章1〜21節)
(マタイによる福音書2章1〜12節)

北村 智史

 占星術の学者たちが初め、当然メシアが生まれるのはここだろうと思って、当時巨大な神殿や王宮のあったユダヤで一番大きな都エルサレムへとやって来たように、人はこの世の価値観に囚われて、救い主と聞けば、それは華やかな所にお生まれになる高貴な方だろうというふうに考えてしまいます。けれども、実際にイエスがお生まれになったのは、片田舎の町ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の中でした。イエスは、困る夫婦に誰も手を差し伸べてくれる人がいないという貧しく小さくされた人々の現場、そのただ中にお生まれになったのです。イエスがその誕生した姿を現されたのも、東の方からやって来た学者たち、すなわち異邦人であったり、昼夜を分かたず働かねばならない過酷な職業であったために、安息日を守るなどの律法を遵守することができず、人々から卑しい仕事であると見做されていた羊飼いであったりと、「罪人」というレッテルを貼られて、差別され、軽蔑されて、貧しく小さくされていた人々に対してでした。
  実に、神様は、貧しく小さくされた人々の救いのために、その苦しみの現場、ただ中に、御自分の愛する御子イエスをお遣わしになったのです。このことを思う時、私は神様について、次のように考えざるをえません。すなわち、神様はすべての人々を等しく、平等に愛すると言うけれども、神様はあまりにも慈愛の方でいらっしゃるので、むしろ貧しく小さくされた人々にこそ、まずこれを何とかしなければと率先して大きな愛を注がれるのです。
このことに関連して、礼拝学者の越川弘英先生は、ある著書の中で次のような興味深い言葉を述べておられます。「今日、ますます明確になってきている神学的発見のひとつに『神は立場性をとる』ということがあげられる。旧新約聖書を通じて、そこに見出される神の姿は、『特定の立場』をとり『特定の対象』を『偏り愛する神』である。……それは、明らかに『ある特定の立場から語る神』であり、それもきわめて客観的な基準をもってその『立場』を決定される神であった。たとえば、その基準のひとつは、苦しみ、とりわけ不当な苦しみを受けている人々に、神が優先的に関わりをもたれるという事実と関係している。不当な貧しさ、不当な抑圧、不当な悲惨の中で、泣き嘆く者の声を神はまず聞き届けられる。神はまず小さなものに注目される。」
私たちキリスト者は、こうした神様に従って、自らもまた貧しく小さくされている人々に率先して愛の手を差し伸べていく存在に他なりません。では、私たちは日々の生活の中で、どれほどこのことを実践することができているでしょうか。
  「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というイエスの御言葉に示されているように、イエスは、罪人と見做されて社会の片隅に追いやられてしまっていたような貧しく小さくされた人々に徹底して寄り添って生きられました。けれども、その生涯は、残念なことに、皆に裏切られ、見捨てられる十字架へと続いていきました。かつて、マザー・テレサは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」という御言葉に代表される、マタイによる福音書26:31〜46の御言葉を心に刻みつけるところから、貧しく小さくされた人々の中にイエスを見つけて仕えるということを徹底的に実践しましたが、他でもないその彼女が、何度も何度も人々の「無関心」、「見ないふり」を指摘したように、私は今も、イエスは貧しく小さくされた人々の中で、これらの人々を懸命に支えつつも、しばしば顧みられることなく見捨てられてしまっていると思います。十字架の上で「渇く」と、「のどの渇きもさることながら、誰も手を差し伸べてくれる人がいなくて、人々の愛に飢え渇く」と仰られたイエスは、今も貧しく小さくされた人々に懸命に寄り添いながら、私たちにこの御声を発しておられるのです。
  毎年クリスマスはサンタクロースがやって来たり、皆でパーティーをしたりと、楽しく過ごす一日でしょう。けれども、イエス・キリストの降誕を喜び祝うこのクリスマスの日だからこそ、私たちはただ単にこの日を楽しむだけではなくて、イエスが救い主としてこの世に来てくださった、そうして私たちの救いを成し遂げてくださった今もなお、この世界には飢えや渇き、貧しさ、暴力、戦争、抑圧、不平等、不正などの様々な痛ましい現実が溢れていること、そして、この現実の中でたくさんの人々が貧しく小さくされてしまっていることに目を留めなければなりません。クリスマスを明日に控えたこの一時、インマヌエルの主と共に、未だこの世界に残る様々な痛ましい現実を私たちがこの身で神様の愛を輝かせて乗り越えていく、その決意を新たにしたいと思います。

 
 
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