降誕節第5主日(2015年1月25日)説教要旨  
 

「網を降ろしてみましょう」
(ルカによる福音書5章1〜11節)
北村 智史

 標記の聖書個所はルカによる福音書5:1〜11に記されている、ペトロを初めとした弟子たちの召命物語です。この中で、イエスは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁を」するようペトロにお命じになりました。そこには、御自分の言葉を聞いて受け入れる者がどれほど豊かな実りを結ぶのか、このことを、御自分の言葉に従って漁をしたペトロの大漁の出来事を通して人々に示そうとするイエスの狙いがあったことでしょう。
  しかし、それだけがイエスの狙いだったのではありません。夜通し苦労したけれども何もとれなかったという経験から、魚がとれるとは思えなかった、だから、「いやいや、今日はもう無理ですよ」と断ることもできた、けれども、とりあえずイエスの言葉に従って半信半疑のまま網を降ろしてみた、そうして舟が沈みそうになるほどの大漁を経験した、そのようなペトロに、イエスは、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と声を掛けられました。そこには、「だから、あなたは伝道、福音宣教において、いつもこの経験を忘れずに覚えておきなさい」というイエスの思いが込められていたのではないでしょうか。私はこの奇跡の漁を通して、イエスは、たとえ福音宣教や伝道が上手くいかないと思える時にも、御自分の御言葉に従って網を降ろし続けることの大切さを、ペトロを初めとした弟子たちに教えたかったのではないかと思うのです。
  イエスが弟子たちにお教えになったこのことは、今を生きる私たちにとってとても大切なことではないでしょうか。私たちもまた、人間の知識や経験からすれば上手くいかないように思える時があっても、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と仰られたマタイによる福音書28:19のイエスの御言葉に従って社会に網を降ろし続けて、伝道、福音宣教の業を行っていくように、そうして大きな収穫を得るように、イエスによって招かれているのです。では、私たち教会は普段、どれほどこの社会に対して網を降ろすということを意識することができているでしょうか。
  このことを思う時、私は阪神淡路大震災と東日本大震災という二つの未曽有の大震災の中で見られた教会の対応の違いについて考えます。1月17日に、私たちはあの忌まわしい阪神淡路大震災から20年目の時を迎えました。テレビで映し出される当時の映像を見ながら、私はあの時のことが思い出されて本当に胸がいっぱいになりました。朝早くに大きな地震で目が覚めて、テレビを付けたら、兵庫の町が、高速道路は倒れ、建物は倒壊し、至る所で火災が発生し、地獄絵図になっていたのです。こうした中で、私の前任地の教会であります甲東教会は、幸い建物が無事でしたので、礼拝堂を次々と運び込まれてくる遺体の安置所にし、ホールを家が倒壊した人々の避難所として開放したと言います。当時のこうした働きがあって、今でも甲東教会では、震災の時期になりますと、当時教会に避難されていた方々が礼拝へとやって来られたり、献金を送って来られたりして、感謝の思いを伝えてくださいます。しかし、その一方で、当時、建物が無事であったにもかかわらず、教会に人が押し寄せて来て混乱することを恐れて、門を閉ざしてしまった教会もあったと言います。そして、こうした教会は、今でも地域の方々と大きなしこりを残してしまっているのです。
  同じようなことは、東日本大震災の時にもあったと聞いています。この時、自ら被災しながらも、支援物資を配るなどして地域、社会に積極的に手を差し伸べた教会もあれば、混乱を恐れて支援物資が来たことを内密にし、保身に走った教会もあったのでした。
  同じ緊迫した状況のもとに置かれていながら、いったい何がこのような対応の違いを生んだのでしょうか。それはもちろん、単純に答えられるような問題ではないのでしょう。しかし、おそらくこれだけは言えると思うのですが、結果的にこうした別々の対応に至ったとは言え、それは、この時に突然そういう結果が生じたというわけではなくて、そうなるからには、それだけのプロセスがあったはずだということです。言い換えれば、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」、「沖に、社会に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と呼びかけるイエスの御言葉を、それまで教会がどれだけ真剣に受け止めてきたか、そして実践してきたか、その積み重ねが最後にその教会の決断に影響を与えたのではなかったでしょうか。
 このことに関連して、教会が社会を見つめ過ぎることに疑問を持つ人がいます。「教会は福音を伝えるのであって、社会問題に深く関わるのではない」と言うのです。しかしながら、そのような内に閉じ籠った消極的な信仰で、私たちは神様の召しにしっかりと応えていくことはできません。
 たとえ人間的な知識、経験からすれば困難と思える課題を抱えていても、私たちが神様の呼びかけに応えて精一杯愛を込めて網を降ろし続けるならば、そうして社会に対して開かれた信仰、開かれた教会を打ち建てていくならば、神様は必ず大きな収穫を与えてくださるし、地域にある教会として重要な選択を迫られる時にも、神様の御心に適う選択をしっかりと為していくことができると私は信じています。
  ペトロの如く、「わたしは罪深い者なのです」と告白せざるを得ない、弱さと欠けを抱えた私たちではありますけれども、イエスによって召された身として、この社会に広く、深く網を降ろしていきたいと願います。

 
 
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