降誕節第8主日(2015年2月15日)説教要旨  
 

「欠けた器をこそ」
(ルカによる福音書9章10〜17節)
北村 智史

 標記の聖書個所(ルカによる福音書9:10〜17)は、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人を超える人々のお腹を満たされたという有名なお話です。では、このようにイエス様の周りに集まって来た人々は、どのような人々だったのでしょうか。ある聖書学者は、イエス様が生きておられた当時の社会について、それは「総人口の九割が小規模の村落に暮らしていた」社会であり、イエス様は究極的にはこうした人々にその教えを話されたのだと語っています(J.D.クロッサン、M.J.ボーグ『イエス最後の一週間』、54〜55頁、教文館)。イエス様の周りに集まって来た人々は、このように経済的に苦しくされた人々、病人、障がい者のように、当時「罪人」と見なされて差別されてしまっていた人々など、貧しく小さくされて、社会の片隅に追いやられてしまっていた人々が主でした。イエス様はこうした人々を喜んでお迎えになって、「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と仰って神の国について語り、治療の必要な人々を癒されたのです。
 イエス様の行動はこれで収まりません。夕暮れになり、飢え渇く人々に、イエス様は五つのパンと二匹の魚を分け与えて全員を満腹させる奇跡を行われました。大切なのは、イエス様がこのような業を行われるに当たって、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と述べて、弟子たちの積極的な役割を引き出しておられることでしょう。イエス様は別に弟子たちの協力を得なくても、また弟子たちのパンと魚が無くても、御自分の業を行うことができたと私は思います。けれども、イエス様はそのようなことを望まれませんでした。イエス様は弟子たちと一緒に御自分の業を成し遂げたいと願われたのです。
 そのイエス様は今も御自分の弟子である私たちと共に、御自分の業を為していきたいと願っておられます。私たちと共に貧しく小さくされた人々に愛を示し、霊的な飢えを満たし、御自分がメシアであることを告げ知らせたいのです。イエス様のこの願いに応えるために私たちが持っている賜物は、もしかすると「五つのパンと二匹の魚」よりもわずかなものであるかもしれません。けれども、これらの賜物をイエス様の御手に委ねる時、イエス様は大きな力を働かせて、私たちと共に偉大な御業を成し遂げてくださるのです。ですから、私たちはもっともっと神様に自らを委ねて、愛を行うことにおいても、福音を宣べ伝えていくことにおいても、積極的にならなければなりません。しかしながら、ここで私たちの心を振り返ってみれば、そこには、神様に自らを委ねていくことを、そうして神様に積極的に遣わされていくことを妨げるある思いがたえず付き纏っていることに気付くのではないでしょうか。それは、「こんな欠けだらけの自分が…」と言ったように、神様の御前に自分を卑下してしまう思いに他なりません。
 けれども、ここで聖書に立ち帰ってみれば、私たちは、そこで神様に豊かに用いられた人の実に多くが弱さと欠け、傷を抱えていたことに気付きます。実際、イエス様の直弟子たちは皆このように弱さや欠け、傷を抱えた人々でした。彼らはイエス様の生前はその御心を少しも理解することができず、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と言い争ったり、イエス様に将来の権力を願い求めたりしています。イエス様が逮捕された時には、皆が我が身の可愛さにイエス様を見捨てて逃げてしまいました。しかし、彼らは復活のイエス様に出会い、また決して人をお見捨てにならない神様の深い愛に出会って、自分たちが持つこうした弱さと欠け、傷を乗り越えて、まさに命がけでイエス様の福音を宣べ伝えていく者へと変えられていったのです。
 こうした事実は、私たちにとても大きな示唆を与えてくれているでしょう。私たちの発想では、ついつい欠点があるから、傷があるからだめな奴だというふうになりがちですが、神様の御前には決してそうではありません。神様に支えられながら、神様と一緒に自分の弱さや欠け、傷と向き合い、生きた人々の人生は、豊かな信仰の模範となりますし、豊かに福音の種を蒔いていくのです。それは、こうした人々が自分の弱さや欠け、傷の経験を通して、神様の愛がどれほど人を見捨てないものであるか、諦めずに救い出してくださるものであるかを、そしてその恵みがどれほど深いものであるかを身に沁みて知っているからではないでしょうか。だからこそ、その人の言葉に、行いに、人生に、神様の御言葉が豊かに受肉していくのだと私は思います。
 私たち一人ひとり、様々な弱さや欠け、傷を抱えた者ではありますけれども、そのことのゆえに、「こんな自分が…」と神様の前に気後れするのは止めましょう。神様はその弱さ、欠け、傷を通して私たちと豊かに出会い、御自分の愛と恵みの深さを教えてくださるのです。弱さや欠け、傷を抱えた者こそが、豊かに神様に用いられていくという神秘。この神秘に身を委ねながら、私たちの賜物を何倍にも増し加えてくださるイエス様と共に、臆することなく積極的に愛を行っていきたい、福音を宣べ伝えていきたいと願います。

 
 
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