降誕節第6主日(2015年3月29日)説教要旨  
 

「御心のままに」
(ルカによる福音書 22章39〜53節)
北村 智史

 標記の聖書個所(ルカによる福音書22:39〜53)は、イエス様が十字架の御受難を前にして、オリーブ山でお祈りをお捧げになった場面と、逮捕された時の場面です。立って祈るのがユダヤ人の習慣であったにもかかわらず、苦しみ悶えるあまりにそれができなくて、ひざまずいてお祈りになったというイエス様の御姿(41節)と、汗が血の滴るようにぼたぼたっと落ちたというイエス様のその御様子(44節)からは、神様の御旨を為さなければという思いと、できることならばこの苦しみを避けたいと願う気持ちとの間で激しく揺れ動くイエス様の葛藤が痛いほど伝わって来ます。けれども、イエス様はこうした激しい葛藤の末に、ついには、「神様、どうぞわたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、自らの運命を神様にお委ねしたのでした。逮捕の際、抵抗しようとする弟子たちを「やめなさい。もうそれでよい」と言って諌め、粛々と祭司長、神殿守衛長、長老たちの手におかかりになるイエス様のその御様子からは、自分の願いではなく、神様の御旨に懸命に従おうとされるイエス様のその覚悟がはっきりと見て取れるでしょう。
 こうしたイエス様の生涯は、自分の願いをも超えて、神様の御心に従っていくことの大切さを私たち一人ひとりに教えてくださっているように思えます。しかしながら、ここで私たちの信仰について振り返ってみれば、そこには神様の御心に従っていくどころか、自分にとって都合の良い御利益を受け取ることばかり考えて、肝心の神様の愛に対する応答や悔い改めといったある意味ではしんどいこと、犠牲を払うことを避けようとする、そうした消費者根性とでも言うべきものが見受けられるのではないでしょうか。
 このことに関連して、礼拝学者の越川弘英先生は次のような興味深い言葉を語っておられます。「たとえ意識するとしないとにかかわらず、私たちは往々にして、『その宗教がどれだけ役に立つか』、『礼拝がどれだけ役に立つか』、『神がどれだけ役に立つか』という基準によって判断したり選択したりすることがあります。実際、教会の中にも『消費者根性』とか、あるいは『ギブ・アンド・テイク』の感覚、すなわち『神と取り引きし、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる』ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してくることがあるのは事実であって、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、私たちの信仰生活や教会生活を送っていることをつねに意識し続けていなければなりません。礼拝は人間と神が『取り引き』する商売ではなく、教会もそのための商店ではありません」。
 先生のこうした指摘は、私たちにとても大きな示唆を与えてくれているでしょう。私たちが普段、礼拝の中、また生活のあちこちで耳にする御言葉の中には、赦しを告げる御言葉、無償の愛を告げる御言葉といったように、耳当りの良い御言葉もあれば、悔い改めを求める御言葉、より積極的な奉仕を求める御言葉といったように、どちらかと言えば耳の痛い御言葉も存在しています。顧みて、私たちは自分にとって都合の良い、自分が聞きたいと願う御言葉だけを聞くということをしてしまってはいないでしょうか。また、教会生活、信仰生活の中で恵みを受け取ることばかり考えて、神様への応答や奉仕、こうしたものを蔑ろにしてしまってはいないでしょうか。
 ここで私たちが信じているキリスト教について考えてみれば、それは自分にとって都合の良い御利益ではなくて、神様の御心を追い求めていく宗教であると言うことができるでしょう。神様の御心とは、すべての人が主の平和(ヘブライ語で「シャローム」 ※何一つ欠けたところの無い、満ち足りた状態を指す言葉)に与って、イエス・キリストの救いを、終わりの日だけでなく、今実感できるようになることに他なりません。けれども、私たちが生きているこの世界では、それぞれの人が自分の勝手な願いを叶えるべく、エゴに走って、様々な罪の現実を生み出し続けているのが現状です。こうした現実を変えていくために、そうして神様の御心を為していくために、私たちは一人ひとり、自分の願い以上に神様の御心を追い求めて生き抜いた、そうして大きな祝福に与ったイエス・キリストの背中を仰ぎ見なければなりません。そうして、日々の生活の中で、罪に溢れた自分を、また社会を変えていくべく犠牲を捧げていかなければなりません。
 精神医学者のジェラルド・G・ジャンポルスキーという人は、「赦し」をテーマにした著書の中で、「世界中の誰もが恨みを手放したらどんなに平和になるか、想像してみて欲しい。人種や宗教の違いのために何百年も続けてきた戦争をやめ、お互いの傷を癒すことができたら、どんな世界が生まれるだろうか」といった主旨のことを述べておられますが、私たち一人ひとりが頑張って「赦す」という犠牲を捧げるだけで、世界はこんなにも大きく神様の御心に近づいていくし、エゴに閉じ籠っていては得ることのできない大きな祝福に私たちは与ることができるのです。
 今この一時、イエス様と共に自分の願い、御利益ばかり追い求める心を超えていきましょう。そうして、皆で一緒に神様の御心のために生きていきたいと願います。

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.