復活節第1主日(2015年4月5日)説教要旨  
 

「キリストの復活」
(ルカによる福音書 24章1〜12節)
北村 智史

 標記の聖書箇所(ルカによる福音書24:1〜12)は、イエス様が復活される場面です。イエス様の遺体が見当たらず、ただ途方に暮れた婦人たち、婦人たちの知らせを聞いても、それをたわ言のように考えて信じなかった使徒たち、墓に亜麻布しかなかったのを見てただ驚きながら家に帰ったペトロ。この箇所を読めば、たとえイエス様が復活なされても、イエス様が直接姿を現されるのではない、墓が空であっただけのこの段階では、誰もその復活を信じられなかったことが分かります。イエス様の復活は、人々にとってそれほど信じがたい出来事でした。けれども、イエス様はこの後、弟子たちにその姿を現されて、御自身の復活を彼らが信じるまでに至らせたのです。では、なぜ神様はこれほど信じがたい奇跡を起こして、イエス様を墓の中から蘇らせたのでしょうか。そして、なぜイエス様は本日の聖書個所で終わることなく、その復活した姿を弟子たちにはっきりと現されたのでしょうか。
  ここで復活のイエス様のその顕現について思いを巡らしてみれば、復活のイエス様に出会って、弟子たちは再びイエス様に従っていく機会を与えられました。それは弟子たちにとって、かつて十字架を前にイエス様を見捨てて逃げてしまった自分たちの罪が赦されるのをまことに実感した瞬間だったことでしょう。そして、この罪の赦し、その実感が、弟子たちを殉教に至るまで命懸けで福音を宣べ伝えていく者へと変えていったのです。このことを思えば、私は神様がイエス様を蘇らせて、イエス様があえてその復活した姿を人々にはっきりとお示しになられたのは、救い主をも十字架につけてしまうようなどうしようもない人間の罪、そのすべてを神様がお赦しになられたということを人々にはっきりと告げ知らせてまことに実感させるため、そうして、その実感によって人々を御自分の御心に沿う存在へと変えていくためだったのではないかと思うのです。かつて、アウグスティヌスは、「神なくして我ら為しえず、我らなくして神為さず」という有名な格言を述べましたが、神様はイエス様の復活とその顕現を通して、罪の赦し、その実感によって人を変えていく、そしてその変えられた人を用いてこの地に御自分の御旨を成していくという働きをお始めになったのではなかったでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活の出来事により、神様の救いを終わりの日に確かなものにするという働きは完全に成し遂げられました。しかし、これを今の現実のものにしていくという神様の働きは、実に復活の出来事から新たに始められたのです。
  では、神様のこの働きに私たちが豊かに協力していくために、私たちは神様の偉大なる罪の赦しを実感して、どのように自分を変えていただくべきなのでしょうか。そうして、どのように神様に遣わされていくべきなのでしょうか。
  ここで私たちが生きている今のこの世界について振り返ってみれば、そこには、まだまだ神様の御旨が成るには程遠い様々な罪の現実が至る所に存在していることに気が付くでしょう。その根本にあるのは、他を抑えつけてでも、また暴力に訴えてでも自分の利益や満足を得ようとする、そうして他者への、またこの世界への関心を蔑ろにする、そのようなエゴに他ならないと私は思うのです。私たちが神様と共に、今、この地に神様の御旨を成していくためには、私たちは何よりも神様の赦し、その恵みに出会って、実感して、こうしたエゴを変えていただかなければならないし、こうしたエゴからの脱却を人々に訴えていかなければなりません。
  ここでイエス様のその生涯について振り返ってみれば、それはまさにエゴとは対極に生きられた生涯だったことが分かるでしょう。イエス様は御自分の利益や満足を得るために、誰一人として抑えつけるようなことはなさいませんでした。「受けるよりは与える方が幸いである」と仰られたその言葉から分かります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と仰るくらい、暴力に訴えることもなさいませんでした。その関心はいつも他者に対して開かれていて、無関心に陥ることはありませんでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そのように仰られて、当時「罪人」とレッテルを貼られて社会から締め出され、貧しく小さくされていた人々にいつも寄り添われたことがそのことを証ししてくれます。ゲッセマネで「十字架の上で苦しみたくない。自分の命を守りたい」と願う時も、その願いを超えて神様の御心を優先されました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。このように述べて、他のすべての人々が永遠の命、主にある新しい命に生きるようになるために、自分の命を捨てられました。イエス様は徹底してエゴに死に、十字架に死に、蘇って、そうして天高く挙げられ、神様から大きな祝福をお受けになったのです。イエス様の復活をお祝いするイースターのこの日、神様の偉大なる罪の赦しをまことに心に実感するこの日、私たちもまたイエス様のこの背中を仰ぎ見ながら、エゴに死に、新しい命に蘇って神様から大きな祝福を受けたい、そうして、神様と共にこの世界を、神様の御心に沿うものへと変えていきたいと願います。

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.