聖霊降臨節第1主日ペンテコステ礼拝(2015年5月24日)説教要旨  
 

「一つに集まればいいというわけではない」
創世記11章1〜9節、使徒言行録2章1〜11節
北村 智史

 創世記11:1〜9は有名なバベルの塔のお話です。創世記10章には、洪水の後、ノアの子孫たちが各地に広がり、それぞれ民族を形作っていった様子が記されていますが、シンアルの地、すなわちバビロニアの地に住み着いた人々は、煉瓦とアスファルトを用いて、天まで届く塔のある町を建て始めました。その目的は、神様を礼拝するためではなくて、自分たちの技術・文明を誇りにして「有名になる」ためであり、また「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と仰られた神様の命令に反して「全地に散らされることのないように」するためであったと聖書には記されています。このようにして、一つになって集まり、神様を頼りにするのではなくて自分たちの力を頼りにする、そうして神様に反逆を企てる人々を前にして、神様はその言葉を混乱させ、彼らを全地に散らしてその企みを挫かれました。
  これが有名なバベルの塔のお話ですが、このお話をもう一つの聖書箇所、使徒言行録2:1〜11と比較する時、私はこれらがちょうど対照的なお話になっているように思えてくるのです。ここで使徒言行録2:1〜11のお話を振り返ってみれば、それは人々が一つになって集まり、神様を礼拝し、神様を頼りにしていた、そうして神様の御心に従っていこうとしていたところに、神様が聖霊を豊かに降して、言葉の壁を打ち砕いてくださった、そうして人々を力強く福音宣教に立たせてくださった、そのようなお話になっていることが分かるのではないでしょうか。創世記11:1〜9と使徒言行録2:1〜11。これらを読み比べますと、私たちは、同じように人が一つに集まるお話でも、片方は人々が罪を犯したというお話になっていて、もう片方は人々が神様の御心に適う姿になっていたというお話になっていることがよく分かります。そして、人間というものはただ一つに集まればいいというわけではない、一つになって罪を犯しもすれば、神様の御心に適う姿にもなる、それが人間なのだという事実について深く考えさせられるのです。
  顧みて、私たちの教会という集まりは罪を犯すものとなっていないでしょうか。本当に神様の御心に適う姿になっているでしょうか。これまで、私は何度も、求道者の方などが「教会に来られる方は皆立派なので」と仰るのを耳にしてきました。しかし、いくら教会が神様によって招かれた人々の集まりであるとは言え、そこに来る人は決して聖人君子などではなく、罪を持った一人の人間です。ですから、私たち教会もまた残念なことに、一つ間違うと他人の悪口を言ったり、噂話をしたり、気心の知れた仲間で集まる方が居心地が良いということで新しい人が入るのを嫌がったりして、神様の御心に反した罪深い集まりに堕落してしまう可能性を秘めているのです。
  では、私たちはどうすれば罪に陥ることなく教会を教会たらしめて、神様の御心に適う姿としていくことができるのでしょうか。私はそれは、主日の礼拝を真剣に守ることによってだと思います。ここで教会がこの世に最初に建てられたペンテコステの出来事に立ち帰ってみれば、神様は一つになって集まり、礼拝を守っていた弟子たちの間に聖霊を送って、まことの教会をこの世に生まれさせてくださったのでした。教会があって礼拝が生まれたのではなくて、礼拝があって教会が生まれたのだというこの事実を、私たちはいつも記憶に留めておかなければなりません。神様を讃美し、豊かな悔い改めを捧げて神様の御心を追い求める礼拝の場に、神様は聖霊を豊かに降してまことの教会を建てさせてくださるのです。
  翻って、私たちはどれほど真剣に主日の礼拝を神様にお捧げしているでしょうか。私たちは、ただ日曜日に一つに集まればいいというわけでは決してありません。このように礼拝を単なるルーティーン・ワークのように神様にお捧げするならば、私たちは教会という集まりが罪深い人間的な集まりに堕してしまう危険を免れることはできないでしょう。私たちは一人ひとり神様によって招かれてこの教会へと集って来たわけですが、既に申し上げましたとおり、私たちは皆聖人君子などではなくて、弱さと欠けを抱えた罪人であり、ともすればこの世の価値観や人間的な思いに流されてしまって、様々に罪を犯してしまう存在なのです。だからこそ、私たちは神様と出会い、神様の御心に立ち帰っていく原点として、また神様の御心を追い求めて行っていく出発の場として、主日毎に真剣に神様に礼拝をお捧げしなければなりません。そうして、教会という集まりを神様の御心に適う姿へと成長させていかなければなりません。かつて、パウロはローマの信徒への手紙12章の冒頭で、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と語ったうえで、次のような言葉を語りました。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この御言葉をしっかりと噛み締めましょう。そうして、主日の礼拝を通して私たちの教会を神様の御心に適う姿としていくその決意を新たにしたいと願います。

 
 
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