聖霊降臨節第10主日(2015年7月26日)説教要旨
 

「義のための苦しみ」
ペテロの手紙一 3章13〜22節
北村 智史

 人生において生じてくる苦しみというものを、私たちは信仰との関わりでどのように考えていったらいいのか。このことは、信仰を持っている者なら誰でも一度は考えたことのある切実な問いだと言うことができるのではないでしょうか。信仰さえ持てば、そうして神様を信じていさえすれば、何の苦しみもなく、幸せなこと、楽しいことばかりが起こって万々歳の人生を送ることができる。そのようであれば物事は単純で、私たちは悩むこともないのですが、実際はそのようにはいかなくて、どれほど熱心に信仰を持ち、神様を信じていても、私たちの人生には苦しみの出来事が避けがたく起こってきます。そうして、私たちの信仰を揺さぶります。

 神様がいらっしゃって、なぜこの世には理不尽な苦しみというものが存在するのか。神様は私たちを救いへと導く善良な方ではないのか。こうした神様の義に関わる議論を神学の用語では神義論と言いまして、たとえば、理不尽な苦しみは、神様がそれを通して何かを教えようとしておられるのだとか、信仰の強さを試しておられるのだとか、人間には計り知れない理由があるのだとか、時間が経てばその意味が明らかになってくるのだとかいったように、これまで、実に様々な方が様々な議論を通してこの答えを探し求めてきました。けれども、未だ皆が納得のいく完璧な答え、究極的な答えというものは出されていません。おそらく、神義論の問いというのは永遠のものであって、私たち人間には永久に自己満足的な答えしか出せない、完璧な答えなど出せない性格のものなのでしょう。

 しかしながら、そのような中にあっても、一つだけはっきりしていることがあります。それは、神様が私たちに、苦しみの中にあってもこれに負けることなく御心に生きて欲しいと願っておられるということです。アブラハムやイサク、ヤコブ、モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ペトロ、パウロ等々、これら聖書に出てくる人々は皆、心から神様を愛し、神様に仕えた人ですが、皆が度重なる大きな苦しみに見舞われました。そうした幾度もの苦難の中を、彼らは神様に支えられて、その御心に生き抜いたのです。私たちが信仰を持って生きたなら、すべてが順調にうまくいく、そのようなことを神様は決して聖書を通して教えてはいません。その代わりに、神様は聖書を通して私たちに、この人々に連なる生き方をするよう懸命に訴えておられます。私たち、このことをしっかりと覚えて、たしかに苦しみも存在する信仰の道を力強く御心に生きていきたいと願います。

  さて、本日は聖書箇所として、ペトロの手紙一3:13〜22を取り上げさせていただきました。この手紙は、伝統的には、使徒であるペトロがネロの迫害によって殉教の死を遂げる直前に、当時バビロンと呼ばれていたローマから小アジア地方の諸教会に宛てた手紙であるか、もしくは、ネロの迫害の直後、A.D.67年頃に、シルワノという人が亡くなったペトロの遺志を汲んで書いた手紙であるというふうに考えられてきました。けれども、こうした伝統的な見解に対しては、現在、多くの学者からいくつかの疑問や問題点が提起されていまして、結局のところ、この手紙が、どこで、誰によって、どのような経緯で書かれたのか、その歴史的な背景について断定的なことは言えないというのが現状のようです。しかし、少なくとも、この手紙が紀元1世紀の内に、迫害に苦しんでいた教会の人々のために書かれたということは疑いなく信じることができるでしょう。この手紙を読みますと、これを書いた著者が、迫害に苦しむ教会の人々に洗礼の恵みを想い起こさせ、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって成し遂げられた終末の救いの希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦しみに積極的に参与していく生き方を勧めていることが良く分かります。

  本日の聖書箇所3:18を見てみましょう。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」。イエス様はどうしようもなく罪を抱えた私たちのその罪の贖いのために、十字架というこの上なく大きな苦しみを耐え忍ばれました。それは、ただただ私たちへの愛のゆえです。このようにして成し遂げられた神様の偉大な救いの恵みを思います。また、この救いを信じて受ける洗礼の恵みを思います。ペトロの手紙一2:21には、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」という御言葉が記されていますが、私たち、神様の御心を為すために理不尽な苦しみをも厭わずに背負われたイエス様のこの御姿を仰ぎ見ながら、義のために、神様の御心を為していくために積極的に苦しみを荷っていくよう神様に招かれているのです。

 このように、イエス様の御姿にならい、イエス様の苦しみにあやかって、私たちもまた喜んで義のため、神様の御心のために苦しみを荷っていくことを勧めている本日の聖書箇所の中で、今回最も私の心を捕らえたのが、3:17の「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」という御言葉に他なりませんでした。この御言葉が、今の日本の状況の中で特別な意味を持っているように私には思えたのです。

  皆さんもご存じのように、先々週の水曜日、15日に安全保障関連法案が衆議院特別委員会で強行採決されまして、翌16日に衆議院を通過しました。各報道機関の世論調査で多くの人々が反対の考えを示し、憲法学者の多数が憲法違反だと指摘しているにもかかわらず、そうして、他でもない安倍首相が「まだ国民の理解が進んでいる状況ではない」と認めているにもかかわらずです。このような状況の中にあって、いわゆる「存立危機事態」の定義も曖昧な集団的自衛権の行使容認と、これまた「重要影響事態」の定義も曖昧に自衛隊の他国軍への後方支援活動領域を地球規模に広げることを盛り込んだ11の安全保障関連法案が強行採決、衆院通過となりました。これまで一度も戦争に巻き込まれることなく、また武力を行使せず、平和国家として歩んできた戦後日本とは違う道を、今私たちは歩み出そうとしています。

  安全保障関連法案が強行採決された15日の朝に、私は、本日の礼拝の予告を週報に出すために説教の黙想を行い、説教題、讃美歌などを決めようと、聖書日課になっていました本日の聖書箇所を読みました。その昼に、強行採決のニュースを知り、またfacebookで牧師仲間が、「自分はこの集会に参加する」と、学生団体主催の国会前抗議行動の集会を紹介してくれているのを目にしました。そして、また本日の聖書箇所を読んだのです。その時に、「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」というペトロの手紙一3:17の御言葉が、こんなふうに私の心に響いてきました。「今、無関心という悪を行って、後で後悔して苦しむよりは、今、神様の御心に適う善を行って苦しむ方が良い」。そうして、居ても立ってもおれなくなって、その日の晩、国会の前で行われた学生団体が主催する強行採決への抗議行動に、一人のキリスト者として参加をしてきた次第です。

  国会前には非常にたくさんの方々が詰めかけていまして、これは主催者発表ですが、私が参加した時点で25,000人の方が、15日の一日で延べ10万人の方が抗議行動に参加をしたそうです。学生団体が主催する抗議行動ですので、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、それでも若者の参加が多かったことには、この問題に対する若者の関心の高さが窺えて驚かされました。抗議行動、デモと言いますと、昔の学生闘争や海外のニュースで時々見られる過激なデモ活動のように暴力的なイメージを持たれる方もおられるかもしれませんが、私が参加した抗議行動はそのようなものではまったくなくて、自らスタッフを出し、混雑を避けるために人々を誘導したり、マナーを守らない参加者には注意をしたりと、非常に配慮が行き届いていまして、ルールをしっかりと守る、秩序正しい非暴力、不服従の抗議行動を実践していたように見受けられました。そんな彼らが掲げていたのが、「最大の悲劇は、悪人の抑圧や残酷さではなく、善人の沈黙である」というキング牧師の言葉に他なりません。「足腰が弱くなったおじいさんやおばあさんが、暑い中わざわざ外に出て、震える声で拳を突き上げて、戦争反対を叫んでいる姿を見ました。この70年間日本が戦争せずに済んだのは、こういう大人たちがいたからです。ずっとこうやって戦ってきてくれた人達がいたからです。そして、戦争の悲惨さを知っているあの人達が、ずっとこのようにやり続けてきたのは、紛れもなくわたしたちのためでした。ここで終わらせるわけにはいかないんです。わたしたちは抵抗を続けていくんです」。このように訴える彼らの言葉に、私は素直に心を打たれました。神様がいらっしゃって、なぜこの世界に苦しみなど存在するのか、苦しみなど起こってくるのか、それは分からないけれど、私たちには義のために、神様の御心を為していくために、積極的に苦しみを荷っていかなければならない時がある、それが今なのだということを心に強く思わされた次第です。

  日本基督教団ではこの度、全国の諸教会、伝道所、および関係学校、施設、団体でこの祈りを共にして欲しいと、「戦後70年にあたって平和を求める祈り」というものを出しました。受付のホワイトボードの所に貼り出してありますので、まだご覧になっていない方はまた後でご覧になっていただきたいと思いますが、こんな祈りです。

「私たちは今、世界の主なる神に祈ります。私たちは戦後70年にあたって、アジア・太平洋戦争時、日本の戦争遂行に協力し、多くのアジア諸国の民に多大な苦しみを与えたことを悔い改め、二度と同じ過ちを犯すことがないために、真に平和を造り出すことができる知恵と力を与えてくださるように、今この時、神の憐みと導きを祈り願います。今、日本は、多くの憲法学者が憲法違反と指摘しており、多くの国民が懸念しているにもかかわらず、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、そのための安全保障法案を国会で議決しようとしています。私たちはそのことを憂い、『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする』(イザヤ書2章4節)平和の実現を願い、為政者が謙遜になり、国民の思いに心を寄せ、秩序をもって政治を司ることができるよう切に祈ります。また、国政に責任を負う者の中に、多くの重荷を負わせられている沖縄の人々のうめきや痛みをかえりみず、言論を封じようとする発言があることに心が痛むと共に、為政者のおごりを感じます。異なる意見に耳をかさず、懲らしめなければならないとうそぶいている権力の担い手たちが、異なる意見を真摯に聞く心を与えられるよう祈ります。為政者が、権力を担うことは民意の委託であることを覚え、民に聴き、民の痛みを知り、民を尊び、民に仕える心が与えられるよう祈ります。私たちは、私たち自身が経済性を優先させる罪に陥り、自分だけが良ければ良いとする思いをもって政治や人権に対して無理解・無関心となっていたことを悔い改めます。私たちに他者の痛みや嘆きを自らのものとして受けとめる心を与えてください。平和の君イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン」

 私たちの中には、もしかすると「自分には何もすることができない」と仰る方もおられるかもしれません。けれども、この祈りを共にしていただくだけで、私は十分大きな意義のある闘いになると思います。それぞれが無関心に陥ることなく、できる仕方で義のための苦しみを、神様の御心を為していくための苦しみを積極的に荷っていきましょう。その時、義のために、神様の御心のために十字架というこの上なく大きな苦しみをも荷われたイエス・キリストが、私たちのただ中に立たれます。そうして、私たちと一緒に歩んでくださいます。ローマの信徒への手紙8:18で、パウロはこう言いました。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と。イエス様と一緒に現在の苦しみを喜んで荷い、神様の御国を、神様の平和を実現していきたい。そうして来るべき日には、神様の御国にある栄光に皆で一緒に与りたいと願います。  祈りましょう

 
 
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