聖霊降臨節第16主日(2015年9月6日)説教要旨  
 

「十字架を誇る」
(サムエル記下18章31節〜19章1節)
(ガラテヤの信徒への手紙6章11〜18節)

北村 智史

 本日は、サムエル記下18:31〜19:1とガラテヤの信徒への手紙6:11〜18の二つを聖書箇所として取り上げました。まず初めにガラテヤの信徒への手紙の方を見ていきましょう。パウロはここで、律法を守らなければ、特に割礼を受けなければ救われないと主張する「福音のユダヤ化主義者」たちを痛烈に批判しています。そして、救いを律法という行い、人間の力に依り頼むのではなくてイエス・キリストの十字架に依り頼むように、そうして、神様の御心に適う新しい自分へと生まれ変わっていくように人々に改めて訴えるのです。そこには、そうでなければ救われない、何としてでもガラテヤの教会の人々に救いを得て欲しいというパウロの切迫した思いが込められていたことでしょう。パウロにとっては、まさにイエス・キリストの十字架において現された神様の愛こそが唯一の救いの道であり、新生の道でした。
  では、このようにパウロの心を捕らえて離さなかった、そうして私たちの救いと新生を可能にする神様の愛、イエス・キリストの十字架において現されたこの神様の愛とは、はたしてどのようなものだったでしょうか。その手がかりが、サムエル記下18:31〜19:1に記されています。
  これは、ダビデが自分の息子アブサロムの死を告げ知らされた時の場面です。このアブサロムという人物は非常に野心に溢れ、目的のためには手段を選ばない人物で、ダビデの次の王位継承権を持っていた皇太子のアムノンを、妹タマルを巡るトラブルから殺害し、更にはダビデに反乱を起こします。けれども、彼は「エフライムの森」で戦いに敗れ、あえなく戦死してしまうのです。反乱軍に対する勝利と息子アブサロムの死を告げ知らされたダビデは、勝利を喜ぶよりも何よりも息子アブサロムの死を嘆いて泣きました。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」。罪の中に死んでいった息子アブサロムを嘆くダビデの言葉。しかしながら、この言葉は同時に、罪の中に滅びゆく人間を前にした時の神様の言葉でもあるのではないでしょうか。
  ここで、旧約聖書を紐解けば、それはある面では、海を二つに分け、荒れ野でマナを降らせ、シナイ山で律法を授け、たびたび預言者を遣わして、何度神様が救いの御手を差し伸べても、その度に罪へと零れ落ちて行ってしまう私たち人間の悲しい歴史を記した書物だと言うことができるでしょう。そして、そのたびに、私は、神様が本日の聖書箇所のダビデのように、罪に滅んでしまった人間のためにお嘆きになっていたと思うのです。「私が創造した私の可愛い子どもたちよ。私がお前に代わって死ねばよかった。私の子どもたちよ、私の子どもたちよ」。そして、神様はただ単にお嘆きになるだけではなくて、今から2000年前にこのことを実行されました。本来、罪に滅んでいくべきであった私たちに代わって御自分が十字架へとかかられて、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。私たちが罪に死んでいくことは、御自分が死ぬよりも辛いと思う深い愛、私たちを罪に死なせるくらいなら、御自分が死のうと思われる深い愛。これこそイエス・キリストの十字架において現された神様の愛に他なりません。
  では、顧みて、私たちはどれほど神様のこの愛を心に覚えながら日々の生活を過ごしているでしょうか。ここで私たちが生きているこの世界について振り返ってみれば、そこにはかつての福音のユダヤ化主義者と同じように、救いを神様の愛にではなく、人間の力に依り頼もうとする考えが溢れているように私には思えます。「人間はこれほど科学を発達させてきた。神様に頼らずとも、その愛など無くとも、救いは自分たち人間の手で創り出していくことができる」。このような慢心のもと、神様にもその愛にも心を寄せることなく、また罪を顧みることなく歩んでいる。そして、その結果、自然破壊や地球を何十回も滅亡させることのできる兵器などによって自らの首を絞め、神様の御旨がこの地に成るのを妨げている。それが、私たち人間の姿であるように私には思えてなりません。
  今からおよそ2000年前に、パウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と語り、人間の力を誇りにするのではなく、イエス・キリストの十字架を誇りにするよう人々に訴えました。イエス・キリストの十字架を誇るとは、どういうことでしょうか。それは、私たちが罪に滅ぶたびに「私が代わりに死ねばよかった」と言って嘆き、実際に私たちを罪から生かすために十字架の上で死なれた方、そして、今また私たちが自然破壊や兵器など、自らの罪のために滅びそうになっているのを前に、涙を流しながら私たちを罪から引き離そうと懸命に働かれている方、この方の愛を誇りにするということに他なりません。この方の愛を受け入れて、この方の愛に依り頼んで、自分の罪としっかりと向き合い、悔い改めと新生の道を歩んでいくということに他なりません。実際、世界中のすべての人々が神様の愛に心を開いて悔い改めたなら、そうして新たに生まれ変わったなら、この世界はどれほど神様の御国に近づいていくことでしょう。実に悔い改めと新生は、神様の御国を実現していくためのまことに大きな力です。人間の力を誇りにする過信から、この世界には様々な罪が溢れていますけれども、本当に私たちを生かし、御心へと導いてくださるイエス・キリストの十字架を誇りとしながら、日々心を砕かれて生きていきたい。そうして、皆で一緒に神様の御国をこの地に成していきたいと願います。
  

 
 
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