降誕前第8主日(2015年11月1日)説教要旨  
 

「キリストという名の祝福」
(創世記32章23〜31節、ヨハネによる福音書11章17〜27節)
北村 智史

 創世記32:23〜31は、ヤコブがペヌエルと後に名づけた所で神様と格闘をした場面です。ある注解者は、このくだりはヤコブの心の中の神様との格闘を描いたものだというふうに主張します。ヤコブはエサウと再会する前夜、エサウが攻めて来て、自分をはじめ母も子供も殺してしまうのではないかといった不安や恐怖などから、自分が神様に突き放されてしまったような思いがして、それで神様に祝福を求めて、心の中で神様と格闘を行ったのでした。「神様、あなたは私を立てて祝福の後継ぎにすると仰ったではありませんか。私と共にいて、私がどこへ行っても守り、必ずカナンの地に連れ帰る、私を決して見捨てないと仰ってくれたではありませんか。あれは嘘だったのですか。ああ、兄エサウが恐ろしい。神様、どうぞ私を救ってください。私を祝福してくださるまでは離しません」。このような格闘を、ヤコブは一晩中、心の中で神様と繰り広げたことでしょう。
  ところで、このような神様との心の格闘は、私たちが愛する者を失った時にしばしば繰り広げる類のものではないでしょうか。愛する者を失った時、私たちが、何も思い残すことはないと神様に感謝できるなら、それはとても幸せなことです。けれども、大抵はそのような時、私たちは愛する者を失った悲しさとショックに、自分が神様から突き放されてしまったような思いがして、心の中で神様と格闘し、祝福を求めて神様に必死に食い下がるのではないでしょうか。
  そのような時、ヤコブに祝福をお与えになった神様は、私たちにも一つの祝福を与えてくださいます。長い長い格闘の末、私たちもまた神様のある祝福に辿り着くことができるのです。それは、イエス・キリストという名の大いなる祝福に他なりません。このことを語るために、今回はもう一つ、ヨハネによる福音書11:17〜37を聖書箇所として取り上げたいと思います。
  ある所に、マリアとマルタ、ラザロという3人の兄弟がおりました。この3人はイエス様と親しい交わりにあったのですが、ある時、ラザロが病気で死んでしまいます。そうして、悲嘆にくれる姉妹のもとを、イエス様は訪れるのです。イエス様の訪問に、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、自らの思いをぶつけました。マリアもまたイエス様を見るなり、足もとにひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、マルタと同じ言葉で自らの思いをぶつけました。そして、泣きました。彼女を慰めに来ていた人々も、同じように泣きました。このように人々の心を深い悲しみや絶望に打ちのめす、人類の最大の敵とも言うべき死に対して、イエス様は憤りを覚えられました。そうして、イエス様は人々にまことの同情の涙を流されました。そして、決然とラザロの墓に行き、墓の中からラザロを蘇らせるのです。ここには、私たちのために死と闘い、輝かしい勝利を収められるイエス・キリストの姿が描かれています。
  そして、この後イエス・キリストは、十字架の上に自らを犠牲として捧げて全ての人々の罪の贖いを成し遂げてくださいました。そうして、罪のために裁かれ、死に滅びるしかなかった私たちに赦しと救いを与えて、私たちを神様のもとで永遠の命に生きる者としてくださいました。イエス様は、自らの十字架の出来事を通して、私たちの死を滅ぼしてくださったのです。こうして死はもはやすべての終わりの出来事としては存在せず、永遠の命への入り口へと変えられました。
  ラザロの死の場合のように、私たちには愛する者の死を前にして、それをすんなりと受け止めることのできない場合というのがあります。けれども、どのような場合、どのような長い格闘の先にも、神様は必ず、死に打ち勝ち給うたイエス・キリストという偉大な御名の祝福を私たちに与えてくださいます。そうして、愛する者が今は神様のもとで永遠の命に生きているという温かな希望で、私たちの心を溢れさせてくださいます。
  今、私たちは既に神様の御許に召された信仰の先達たちのことを偲ぶ礼拝を神様にお捧げしていますが、そのようにして過ごす私たちの心中は、必ずしもきれいなものであるとは限らないでしょう。「早すぎる死だった。納得がいかない。受け止めることができない。こんなことをしてあげたかった。あんなことをしてあげたかった」等々、本当に色々な思いを故人に残している場合もあることとお察しいたします。けれども、そのような私たちに、神様は、ヨハネによる福音書11:25〜26にある如く、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、温かく声をかけてくださいます。そうして、故人が御自分のもとで安らかに永遠の命に生きていること、そうして私たちを温かく見守っていることを信じるよう優しく呼びかけてくださいます。この礼拝の一時、この御声にしっかりと耳を傾けながら、愛する者の死に囚われ続ける道を離れていきたい、御国で再び相会う希望を胸に、神様と愛する者とに見守られながら歩む新たな道を歩んでいきたいと願います。

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.