復活節第1主日(2016年3月27日)説教要旨

 
 

「ガリラヤで主イエスに出会う」
(マタイによる福音書 28章1〜10節)
北村 智史

 標記の聖書個所(マタイによる福音書28:1〜10)は、イエス様が復活される場面です。この中で注目すべきは、復活のイエス様と直に出会い、喜ぶ婦人たちに、イエス様が「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、7節の天使の言葉をほとんどそのまま繰り返されたことでしょう。では、なぜイエス様は、ガリラヤで弟子たちに会うことにそれほどこだわられたのでしょうか。婦人たちのように、エルサレムで会うのではいけなかったのでしょうか。
  この謎は、弟子たちにとって、ガリラヤという場所がどのような場所であったかを考えることによって明らかになると思います。弟子たちにとって、そこはイエス様と過ごした日常の場所でした。弟子たちは一人ひとりそこでイエス様から弟子としての招きを受け、様々な奇跡を目撃し、様々な教えを受けたのです。そうして、多くの病人を癒されたり、罪人と見なされて一緒に食事をすることすら禁じられていた人々と一緒に食事をしたりされるイエス様を先頭に、貧しく小さくされた人々に関わって生きました。イエス様は他ではないこの日常の場所で、弟子たちと再び会いたいと望まれたのです。
  このことは、今を生きる私たちにとても大きな示唆を与えてくれているのではないでしょうか。私たちは今、イースターの礼拝を神様にお捧げしています。そして、もちろんこの礼拝の初めから終わりまで、復活の主が共にいてくださっていることでしょう。けれども、この礼拝の場においてのみ、あるいは小イースターと言うべき毎主日の礼拝の場においてのみ、私たちは復活の主に出会うのでは決してありません。むしろ、復活の主は、私たちの日常の場所でこそ豊かに私たちと出会いたいと切に望んでおられるのです。日曜日に教会に行って後は信仰のことなど忘れてしまっている、信仰の応答のことなど忘れてしまっている、そのような人をサンデー・クリスチャンと言うそうですが、そのようなクリスチャンになることなど私たちには求められていません。
  では、翻って、私たちは普段どれほど日常生活の中で復活の主に出会うことができているでしょうか。このことに関連して、かつてインドのカルカッタで、イエス様と同じように生涯を病気や飢え、貧困に苦しんでいる人々に仕えて生きたマザー・テレサは、次のような興味深い言葉を語ってくれています。「わたしたちは今日の世界で、どのようにしてイエスさまを愛することができるのでしょうか?夫を、妻を、子どもたちを、兄弟や姉妹を、周りの人たちを、そして貧しい人たちを愛することによってできるのです。イエスさまがすべての人の中におられるのですから」。彼女はこのようにして、貧しく小さくされた人々の中に、その彼ら、彼女らを支えてイエス様はおられるということを何度も語りました。そして、その彼ら、彼女らを愛することによって、イエス様を愛することができること、お喜ばせすることができることを何度も語りました。マタイによる福音書25:40で、イエス様が「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と語っておられる通りです。マザー・テレサのこうした言葉は、今の私たちにとってとても示唆に富んだものではないでしょうか。今の私たちもまた日常の中の貧しく小さくされた人々を愛することによって、復活の主に豊かに出会っていくのです。
  しかしながら、ここで私たちの日常を振り返ってみれば、そこではどれほど他人のことが豊かに顧みられているでしょうか。私たちの身の回りには、心や体の病で苦しむ人、老いて寂しさに耐えている人、独り暮らしの中で孤独を抱えている人、孤独どころか孤立している人、夫婦や親子、兄弟姉妹など家庭での問題に悩む人、仕事や人間関係に苦しむ人、いじめや差別、様々なハラスメントに悩む人、人権や人としての尊厳が奪われている人、生きること自体に疲れ切っている人など、貧しく小さくされた人々が大勢います。けれども、過剰な競争社会の中で自分の業績を上げることばかりが求められて、これらの人々のことが視野に入れられない。他人のことに構う暇があったら、自分のことを何とかしなければと考えてしまう。そうして、愛することも愛されることも少なく生きてしまっているのが、今の私たちではないでしょうか。
  しかしながら、そのような有り様で、どうして私たちは日常の中でイエス様に出会っていくことができるでしょうか。私たちは今こそ日常において、独りの殻を打ち破って、私たちの身の回りにいる貧しく小さくされた人々に豊かに手を差し伸べていかなければなりません。その時にこそ、復活の主は私たちと親しく出会ってくださいます。イースターのこの主日、弟子たちをガリラヤへと招かれた復活の主に心を寄せましょう。そうして、日常の場へと先立ち行かれるイエス様のその背中を追って、私たちもまた貧しく小さくされた人々が大勢いる、そうして様々な問題が溢れている日常の場へと遣わされていきましょう。本日より始まっていく復活節のこの期間、それぞれの日常で豊かに愛を行い、豊かにイエス様と出会っていきたいと願います。

 
 
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