復活節第3主日(2016年4月10日)説教要旨

 
 

「イエス様と共にある宣教」
(ヨハネによる福音書 21章1〜14節)
北村 智史

 標記の聖書個所(ヨハネによる福音書21:1〜14)に記されている漁のお話は、「人間を取る漁」、すなわち使徒的宣教のことを象徴しています。ヨハネによる福音書20:21で、復活したイエス様は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と述べ、弟子たちに聖霊を与えて、弟子たちを福音宣教へとお遣わしになりましたが、このようにして復活の主に遣わされていく福音宣教がどのような結果になっていくかが標記の聖書個所の漁のお話で暗に語られているのです。弟子たちはこれから漁へ、人間を取る漁へ、すなわち福音宣教へと船出していきます。3節に記されている「夜」と言うのは、イエス様不在の時を暗示しています。イエス様に信頼しない、イエス様不在の宣教は、いくら人間の知識と経験があったとしても何の実りも結ばないことが語られています。しかしながら、復活のイエス様に信頼するならば、復活のイエス様が共にいてくださるならば、夥しいほどの豊かな収穫を得るであろうことがここで預言され、約束されているのです。
  この預言、約束の通り、その後、弟子たちの福音宣教は進み、今では全世界でおよそ20億人の人々がクリスチャンとなるまでにキリスト教は成長しました。日本にもキリスト教は伝えられ、およそ100万人の人々がクリスチャンとなっています。しかしながら、この間、教会がいつもイエス様と一緒にいたか、いることができたかと言うと、私はそのことに疑問を感じるのです。今、大雑把にざっくりとキリスト教の歴史を振り返ってみただけでも、私の脳裏にはこのことを思わされる出来事が次から次へと浮かんできます。たとえば、大航海時代以来のラテン・アメリカにおける宣教について考えてみましょう。
 ラテン・アメリカでは大航海時代の「新世界の発見」以来、絶えず過酷な植民地主義に彩られてきた、そして、教会も長い間そのような植民地政策に加担してきた、そうした暗い歴史が存在しています。そこでは、土地を収奪されて奴隷化されたインディオに洗礼を授けて、「神の国では報いがあるのだから」と忍耐することを勧めるような、まさに大衆の革命意識を慰撫して現実から逃避させる「阿片」の如き終末の希望が語られました。しかしながら、このような宣教の中に、どうして復活の主が共にい給うただろうかと思わされます。
  同じことは、日本の天皇制下の時代の教会について振り返っても思わされます。この時代、教会は偶像礼拝をしてはならないという戒めに反して、御真影への拝礼や宮城遥拝、神社参拝を行い、国家にキリスト教が認められるチャンスとばかり、積極的に戦争協力を行っていきました。国家に戦闘機を奉納したり、朝鮮の教会に対して神社参拝を勧めたりしたのは、その良い例でしょう。このように、天皇制下の時代、教会は天皇臣民として体制に忠実な宗教たらんとしたのです。しかしながら、このような状況のどこに、復活の主が共にい給うたでしょうか。
  このように、歴史を振り返ってみて、教会がイエス様と一緒にいることができなかった時代がいくつも思い浮かぶのですが、こうした中にあって、イエス様不在の宣教が何の実りも結ばないことを伝える標記の聖書個所は、大きな意味を持っていると私は思います。今、世界中にテロが頻発し、世界がキリスト教対イスラーム過激主義のような様相を呈していて、多くの人々が宗教に対して厳しい目を注いでいるように感じられますが、こうした時代の中にあって、私たち教会がこのようにイエス様と共に歩んでいくことができなかった歴史をしっかりと反省し、まことにイエス様と共にあることを志していかなければ、これからの宣教は難しい、何の実りも結んでいかないことを標記の聖書個所は教えてくれているのではないでしょうか。反対に、宗教に対して厳しい目が注がれている今の時代の中にあっても、教会がイエス様と共にあることを大切にするならば、その宣教は豊かな実りを結んでいくことを標記の聖書個所は教えてくれているように私には思えます。
  では、どのようにすれば、私たちはイエス様と共にあることを大切にしながら宣教を行っていくことができるのでしょうか。それには、まずイエス様がどこにおられるかに目を留めることだと思います。私たちが生きているこの世界には、数え切れないほどたくさんの罪の現実、不正義の現実、痛みの現実、愛の欠如の現実が存在しており、その中で多くの人々が苦しみの声を挙げています。そうした中にあって、イエス様は、私たちが遣わされていくのに先立って、既にこうしたこの世界の貧しく小さくされた現実のただ中で御自分の御心を為そうと懸命に働いておられるのです。宣教とは、そこに私たちが参与していく業に他なりません。神様が御自分の御国をこの地に成そうとする働きに、私も、教会も加えていただく、それが宣教なのです。そして、この時にこそ、福音が、神様の愛が人々の心に最も豊かに伝わっていくのです。
  本日も礼拝を通して、私たち、この世界へと遣わされて参りますが、そこで苦しむ人々のただ中で働いておられるイエス様の姿を仰ぎ見て、神様の御旨を為していく働きに加えていただきましょう。そうして、イエス様と共に神様の愛と福音をどこまでも豊かに告げ知らせていきたいと願います。

 
 
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