聖霊降臨節第1主日(2016年5月15日)ペンテコステ礼拝説教要旨

 

「まことに生きた者となるために」
(エゼキエル書 37章1〜14節)
北村 智史

 標記の聖書個所(エゼキエル書37:1〜14)は、イスラエル回復の預言のクライマックスとでも言うべき部分になっています。エゼキエルはこの枯れた骨の復活の幻によって、神様が絶望の虜になっている、そうして死んだような状態になっているイスラエルのすべての人々に命と希望を与え、彼らを故郷へと帰らせてくださること、そうして、北イスラエルと南ユダを合わせたかつてのイスラエル統一王国を再び回復してくださること、その救いを預言したのでした。
 こうした聖書個所の中で、私は、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆って体が形作られても、それだけでは人は生きる者とならなかったこと、霊が宿って初めて人が生きる者となったことが印象に残りました。こうした事柄は私たちに何を教えてくれているでしょうか。それは、肉体を持っているだけでは決して生きているとは言えない。私たちに命を与え、神様の御心に従うよう働きかけてくる神の霊、すなわち聖霊を与えられて初めて人は生きた者とされるのだということに他なりません。
 このことを思う時、私は今から1年程前でしょうか、新聞やテレビで報道されたある事件のことを思い出します。それは、ある夫婦が生後16日の赤ちゃんをゴミ箱に閉じ込めて死なせたという事件に他なりません。ニュースによれば、この夫婦は自宅1階の寝室で、赤ちゃんを、「ゲームがしたかった。泣き声がうるさかった」という理由でプラスチック製の円筒形のごみ箱に押し込んだそうです。ごみ箱は直径20cm、高さ20cmととても小さなサイズで、夫婦は赤ちゃんを押し込んだ上からさらに別のごみ箱をかぶせて閉じ込め、2時間ほど放置しました。その後、夫婦は赤ちゃんの異変に気付き、「子どもが呼吸をしていない。体も冷たくなっている」と119番通報したものの、時既に遅く、赤ちゃんは搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は酸欠による窒息死でした。事件当時、一緒に暮らしていた夫婦の家族は、別の部屋にいて、このことに気付かなかったそうです。
  赤ちゃんの命よりもゲームを優先してしまった、親になり切れない未熟な夫婦が引き起こしてしまった悲しい事件。残念なことに、今の時代、こうした事件は決して珍しいものではなくなってしまっています。テレビや新聞を見れば、こうした事件のニュースが連日のように報道されているのです。そして、私は、こうした愛が冷え切った悲惨な事件のニュースを見聞きするたびに、こうした事件を引き起こしてしまう当事者の方が、肉体的には生きていても、生きているとはとても言えない、霊的には死んだ状態にあるように思えてならないのです。
このように、肉体的には生きていても、霊的には死んだ状態にある人のお話は、聖書にも出てきます。それが、ルカによる福音書12:16〜21に出てくる「『愚かな金持ち』のたとえ」です。アメリカの公民権運動の指導者として有名なマーティン・ルーサー・キング牧師は、この譬え話を取り上げた「愚かだった男」という説教の中で、この金持ちの男の愚かさを三つの点から分析しました。
 まず第一に、この男が愚かだったのは、財産という生きるための手段に過ぎないものを、生きる目的と置き換えてしまったからだと言います。第二に、この男が愚かだったのは、「自分がほかの人々に依存しているということが分からなかったからだ」と言います。そして、第三にこの男が愚かだったのは、「自分が神に依存しているということが分からなかったから」だと言います。
 キング牧師はこのような三重の愚かさを持って生きたこの男について、さらに次のように語りました。「しかし、彼が族長メトセラ〔創世記五・二七〕のように長生きしたとしても、このたとえ話の根本的な真理は変わらないだろう。彼は肉体的には死ななかったとしても、霊的にはもう死んでいたのである。呼吸がとまったということは、もっと前に死んでいたものを、あとになって発表するだけにすぎない。彼は、自分の生きる手段と、生きる目的との間にはっきり一線を画しそこなった時、死んだのであり、他の人々と神に対して自分が依存していることを認めることができなかった時、死んだのである。」
 決定的なことは、この愚かな男は「もう死んでいた」という事実です。人生の目的と手段とを取り違える時、私たちは「もう死んでいる」のです。自己中心的な姿勢だけでこの世界に向き合う時、また隣人を操作したり利用したりする対象として扱おうとする時、私たちは「もう死んでいる」のです。そして、私たちがすべてを依存する方、私たちに命を与えてくださった、そしてやがて再びみもとへと招いてくださる方である神様を見失う時、私たちは「もう死んでいる」のです。先程の赤ちゃん虐待の事件とも考え合わせれば、神様の御心からさ迷い出てしまう時、そしてそのことがもはや当たり前のことになってしまう時、私たちは肉体的には生きていても、霊的には死んだ状態に置かれてしまうのかもしれません。
 振り返ってみて、私たちは神様の御前に、まことに生きた存在となっているでしょうか。今日より始まっていく聖霊降臨節のシーズン、このことを真剣に問うていきたい。そうして、私たちがまことに生きた者となるために、神様が聖霊を豊かに降してくださるよう、そうして私たちを御心へと導いてくださるよう、切に祈り求めていきたいと願います。

 
 
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