聖霊降臨節第13主日(2016年8月7日)平和聖日礼拝説教要旨

 

「抵抗権を見失うな!」
(ローマの信徒への手紙13章1〜7節)
北村 智史

 標記の聖書個所(ローマの信徒への手紙13:1〜7) を読みますと、まるでパウロが私たちに、世俗の権威を神の権威の代表と考えて無批判にこれに従うよう勧めているように感じて戸惑ってしまいます。はたして、この世の権威は神様によって立てられたものであり、いついかなる場合にも正しい存在なのでしょうか。それゆえ、私たちはこれに無条件かつ無批判に従っていかなければならないのでしょうか。
  実際、ロマ書13:1〜7がそのような教えとして解釈されたことは、歴史上しばしばありました。たとえば、太平洋戦争中です。この時代、ロマ書13:1〜7は天皇主義国家体制への従順を説くテキストとして頻繁に使われました。そうして、一部の教派の例外を除いて、教会は総じて戦争協力への道を突き進んでいったのです。
  こうしたことを考えますと、ロマ書13:1〜7は、私たちにとって理解しづらいどころか、非常に危ういテキストのように感じてしまいます。このテキストに記されているパウロの言葉を、私たちはいったいどのように理解すべきなのでしょうか。
  パウロがロマ書を書いたこの当時は、宗教的・政治的熱狂主義者がしばしばローマ帝国内で帝国の権力に反抗して壊滅の憂き目に遭うといった事態が繰り返されていました。ロマ書13:1〜7の言葉は、あくまでもこうした国家そのものを否定し、暴力的な手段に訴えては自滅の道を辿っていたラディカルな立場に対決して、そのようなことをしないよう、「上に立つ権威に従う」ように書かれたものだと考えられています。それゆえ、この言葉は、ラディカルな行動が流行っていた特殊な状況の下における具体的な指示として語られたものであり、国家などの権威一般に対するキリスト教的理解を主張したものではありません。したがって、この言葉だけを捉えて、彼がすべてのキリスト者・教会に対して国家権力への絶対的、盲目的な服従を説いたと考えるのは早計だと言えるでしょう。
  ロマ書13:3の記述にもかかわらず、パウロは現実の国家が悪を行う犯罪者のみにかぎらず、善を行う者にとっても恐ろしい抑圧者となりうることを良く知っていました。何よりもパウロが仕える主イエス・キリストが、十字架に架けられた方、つまり国家の手によって処刑された方だったのです。また、パウロは本日の聖書個所で、国家そのものを否定して暴力的な手段に訴えるラディカルな宗教的・政治的熱狂主義に反対し、国家への敬意と服従を説く一方で、同じロマ書12:2で、キリスト者が本質的には国家に対しても、その時代に対しても完全に独立した存在であり、常に批判的立場に立つ者であることを教えています。このように、パウロが国家を重んじよと人々に呼びかける一方で、それと吻合、癒着せずに自主独立の立場を保てと勧めていることも私たちは忘れてはなりません。キリスト者にとって絶対的なものはただ神のみであり、国家はこの神の御心に適ったものであるかぎり、重んじられます。しかし、もしも国家が神の御心に明らかに反するようであれば、使徒言行録5:29でペトロと他の使徒たちが語ったように、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言わなければならないというのが、パウロの思想だろうと思います。
  キリスト者は、ただ神のみを絶対的なものとする。それゆえ、国家がこの神の御心に適ったものである限りはこれに服従するが、国家がこの神の御心に逆らう場合には、これに抵抗する権利と義務が生じてくる。こうした認識は、今を生きる私たちにとって、とても大切なものではないでしょうか。そして、今この認識を持って私たちの国家を見つめてみれば、そこには様々な神の御心に反した現実が見えてくるのです。
  先月、7月10日に参議院選挙が行われ、いわゆる「改憲勢力」が、憲法改正の国会発議に必要な3分の2の議席を超えました。これから改憲に向けて、ますます動きが加速していくものと思われます。けれども、そこで自民党が発表している憲法改正草案を見れば、本当に恐ろしくなります。
  この憲法改正草案については、すでに多くの専門家たちが数多くの問題点を指摘していますが、それらをまとめますと、次の6つの点に集約することができるでしょう。第一に立憲主義と国民主権の否定、第二に基本的人権の尊重を否定し、個人より国家を優先する姿勢、第三に天皇制国家の価値観の強要、第四に信教の自由と政教分離原則のなし崩し、国家の宗教への介入、宗教の政治利用、第五に平和主義の放棄と戦争ができる国への転換、そして第六に緊急事態条項の新設による全権委任法出現への懸念です。こうした自民党憲法改正草案の問題点を見るにつけ、私は今の日本が戦前の日本に戻ろうとするかのような危うい状況にあることを思わされます。
  このような状況を前にして、私たちキリスト者は神様に態度の決定を求められているのではないでしょうか。ロマ書13:1〜7の釈義から窺うことができるように、キリスト者は国家が神の御心に反する場合、これに抵抗していく権利と義務を有しているのです。私たちは今こそ、この抵抗権を見失うことなく、社会に関わること、政治のあり方に対して注意を払い、執り成しをし、時に警告を発すること、意見を表明し、選挙に参加し、主権者として委ねられた権利を正しく行使していくこと、これらのことにより積極的であるよう、そうしてこの国の政治を、まことに神様の御心に適った方向に導いていくよう神様の御前に態度決定をしていかなければなりません。恐れず、隠れず、沈黙せずに、イエス・キリストをこそ主と告白し、この国の政治の神の御心に反する状況に抵抗していきたい、そうして、この国を、来たるべき神の御国にふさわしいものへと変えていくことに貢献していきたいと願います。

 
 
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