聖霊降臨節第20主日(2016年9月25日)礼拝説教要旨

 

「苦難への自由」
(ヨハネによる福音書11章1〜16節)  
(コリントの信徒への手紙二5章1〜10節)
北村 智史

 ヨハネによる福音書11章には、有名なラザロの復活の出来事が記されています。このお話で見逃せないのは、イエス様がラザロを蘇らせたために、「これだけの騒ぎを起こす者を、生かしてはおけない」と、最高法院の人々がイエス様を殺すことを決議したということでしょう。イエス様は御自分の愛するラザロを蘇らせることによって、その後十字架につけられて殺されることになったのでした。このようにして見ると、ラザロ復活の一連のお話が、イエス様が御自分の命を十字架の上に犠牲にすることによって、復活の命を与えるというお話になっていて、十字架と復活の出来事のひな型になっていることが良く分かるでしょう。ヨハネによる福音書の著者は、イエス様の十字架の尊い犠牲によって、私たち一人ひとりに実際に復活が起こる、永遠の命が与えられるということを、ラザロ復活の物語を通して私たちに伝えようとしたのです。
  私たちは一人ひとり、イエス様の十字架の尊い犠牲、罪の贖いによって、終わりの日に復活し、神様の御許で永遠の命に生きることを許される。この希望は、今から2000年前に一人の人を生かしました。
  コリントの信徒への手紙二5:1〜10は、パウロが終わりの日の希望について語った場面です。皆さんもご存じのように、異邦人伝道の祖として3度にわたる宣教旅行を行い、各地にイエス・キリストの福音を宣べ伝えたパウロのその生涯は、苦難の連続でした。けれども、コリントの信徒への手紙二5:1〜10を読みますと、そんなことは微塵も感じさせないほど、神様に対する信頼と安心で溢れた文章が綴られています。わたしたちの地上の住みかである幕屋、すなわち肉体が滅びても、神によって建物が、すなわち復活の体が備えられていることをわたしたちは知っているとパウロは語るのです。神様はイエス・キリストの十字架の出来事を通して、私たちを無償で神の子とし、永遠の命を授けてくださった。それゆえ、今は苦しみが支配しているけれども、私たちは最後には神様の御許で労苦の涙を拭われて、永遠に安らかに憩うことが約束されている。コリントの信徒への手紙一15:51〜55で、パウロはこの約束を、次のような言葉で表現しています。すなわち、「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」と。
  こうした永遠の命の希望が、パウロを力強く生かしました。こうした希望があったからこそ、パウロはどのような状況の中にあっても、絶望に陥ることなく、神様に対する感謝の気持ちに溢れて、目の前の苦難を乗り越えていくことができたのです。本当に終わりの日の希望というのは、今を生きていく大きな力になるのであり、パウロが終わりから今を生きるという生き方をしていたことが良く分かります。パウロの生き方は、目の前の苦難に囚われない本当に自由な生き方でした。
  今、私たち、こうしたパウロの生き方に連なっていくように神様によって召されています。ある人は、信仰さえ持てば、神様を信じてさえいれば、人生に何も悪いことは起こらず、良いことばかりが起こって万々歳の人生を過ごせるという風に単純に考えるかもしれません。けれども、私たちの人生を振り返ってみればすぐに分かるように、信仰を持っていても、神様を信じていても、私たちの人生には度々苦難が襲います。こうした意味で、私たちは苦難からは自由になれない、信仰も苦難からの自由は与えてくれないと言えるかもしれません。けれども、どのような苦難の中にあっても、絶望しない、希望が湧き上がってくるという意味で、信仰は、苦難の下で、苦難に支配されずに自由に御心に生きる、苦難への自由を与えてくれます。ヨハネによる福音書8:32には、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という御言葉が記されていますけれども、イエス・キリストの十字架の出来事を通して、神様が永遠の命を無償で私たちに与えてくださったという真理、どのような苦難があろうとも、最後には私たちには大いなる喜びが備えられているのだという真理が、私たちに尽きることのない希望を与え、私たちをあらゆる苦難にもかかわらず自由にしてくれるのです。
  実際、私はこれまで、大きな苦難に巻き込まれ、人生をめちゃくちゃにされてもなお、神様の愛に自らを委ね、終わりの日の希望を胸に、信じられないほどの力で、それもただ単に耐えて生き長らえているというのでなく、自分の人生を積極的に生きておられる多くの信仰者に出会い、信仰の種を蒔かれてきました。終末の希望を胸に、今を精一杯積極的に生きておられる信仰者の姿は、それだけで福音を豊かに語ります。私たちもまた、あらゆる苦難の中を、永遠の命を与えてくださる神様の愛に委ねて、希望に溢れて自由に過ごして参りたいと願います。絶望知らずの人生を、皆で一緒に過ごして参りましょう。そうした私たちの姿で、福音を豊かに証ししていきたいと願います。

 
 
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