聖霊降臨節第22主日(2016年10月9日)神学校日礼拝説教要旨

 

「神様の家族」
(マルコによる福音書3章31〜35節)  
北村 智史

 標記の聖書個所(マルコによる福音書3:31〜35)は、マルコによる福音書の中に収められている短い件です。この話を一見すると、イエス様は御自分の家族に対して非常に冷たい反応を示したように感じてしまいます。実際注解書を見ますと、中には、イエス様は自分を信じない家族を拒み、自分に従うことは家族との断絶を意味すること、そしてすべてを捨ててイエス様に従う者たちによって新しい家族が形成されるのだということをここでお示しになったのだと解釈しているものもありました。
  この聖書個所が、神様との交わりによる新しい家族観を打ち出しているということに関しては私は何も異論を唱えるつもりはありません。事実、私もこの聖書個所が、血縁関係を中心とした従来の家族観をはるかに超えた懐の広い家族観を提示していると思っています。
  今を生きる私たちの家族関係が深い闇の部分を抱えているように、イエス様が生きた時代の家族関係もまた、深い闇の部分を抱えていました。当時病気や障がいを抱えた者は罪人と見なされ、血縁関係を中心とした家族関係からも閉め出されてしまうことがしばしばあったのです。イエス様の周りに集まってきた群集は、このように病気や貧しさ、差別などのために社会から、そして時には家族からも疎外され、抑圧されていた人々が主でありました。しかしながら、イエス様はこうした人々に「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と述べ、誰一人もれることなく神様の愛を中心とした家族の輪の中にいることを宣言したのです。
 こうしたことを思えば、疑いもなくイエス様は当時の家族が抱えていた問題を克服する新しい家族観を確立したということができるでしょう。しかし、ここでわたしが一つ疑問に思いますのは、はたしてそのような懐の広い家族観を打ち出したイエス様が、本日の聖書箇所で御自分の家族を拒絶されただろうかということです。
 私は本日の聖書箇所で、イエス様は決して御自分の家族と決別したのではなかったように思います。先に述べました注解書は、33節の「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」というイエス様の言葉を、イエス様に無理解であった彼の家族に対して向けられたものと解釈しました。しかし、私はイエス様のこの言葉は、彼の家族に対するあてつけのような言葉ではなく、当時の家族が抱えていた闇の部分によって、家族から追いやられ、激しい孤独に追いやられていた群衆に対して、誰一人もれることなく家族として包み込んでくださる神様の愛を伝えようとする初めの言葉であったように思うのです。そして、この愛の中で徹底して貧しく小さくされた者に家族として寄り添い、十字架に至るまで歩まれたイエス様と触れていく中で、イエス様の家族もまた神様の愛によって変えられ、育まれ、神様を中心とする懐広い家族の交わりの中に包まれていったのでした。イエス様の提示された家族は、まことに誰一人そこからもれる者なくその中で人を育む、愛と憐れみに満ちたものです。
 では、これとは対極にある、この世の中において、最も大きな苦しみとは何でしょうか。私はそれは孤独であると思います。実際自分が愛されていないと感じてしまうこと、愛されるに足る存在ではないと感じてしまうこと、誰一人自分に寄り添ってくれる人がいないと感じてしまうことほど辛いことはないでしょう。ひどい時には、自分が誰からも必要とはされていない存在だと感じてしまうことすら私たちには起こります。そして、現代の家族が抱えている苦悩や葛藤の奥底には、こうした何がしかの孤独が潜んでいるように私には感じられるのです。しかし、イエス様の提示した家族は、こうした孤独を温かく包み込んでくれるものです。
  私が伝道師となって間もない頃、私は新卒の伝道師たちが集まる教団の新任教師オリエンテーションに参加するために伊豆の方まで出張しましたが、その初日に友人が亡くなったという知らせを受けました。オリエンテーションの間中気が重く、孤独感ばかりに苛まれる日々でした。しかし、重い足取りで教会の事務室に帰ってきたとき、事務室の皆が「おかえりなさい」と家族のような笑みで迎えてくださって、私はほっとしたといいますか、もちろん心の中に変わらず悲しみはありましたけれども、それまで張り詰めていた空気がたしかに和らぐのを素直に感じたのです。
 伝道師として赴任したばかり、ほんの3ヶ月前までは全く面識のなかった、言うなれば赤の他人であった人です。けれども、その人が今はキリストのゆえに家族として私の心を孤独から救ってくれている。私はこれこそ、神様の家族ではないかと思わされました。イエス様がかつて宣言されたように、この家族には誰一人として抜け落ちる者はありませんし、間違っても私たちが抜け落とすことがあってはなりません。
 かつてマザー・テレサは次のように語りました。「わたしたちは、みずからの活動を通して互いに愛することによって、神の愛の恵みをふやし、さらに大きな神の愛をもたらすのです」。この言葉を教会という神様の家族においても適用するならば、そこで私たちは、誰一人もれることなく家族として包み込んでくださる神様の愛のもとで互いに寄り添うことを通して、それぞれの家族が抱えて苦しんでいる孤独を癒し、神様の愛と恵みの枝葉を広げていくよう召されているのでしょう。ここに来れば、人との交わりを通して神様の愛が伝わってくる、人生の中で生じてくる様々な孤独が癒される、前を向いて生きていく大きな力が与えられる、そのような神様の家族として、この東京府中教会を、皆で一緒に建てていきたいと願います。

 
 
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