降誕前第6主日(2016年11月13日)説教要旨  
 

「愛の力」
(マタイによる福音書5章43〜48節)
北村 智史

 標記の聖書個所(マタイによる福音書5:43〜48)は、イエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と人々にお話しになった場面です。当時、人々の間で一般的に為されていた考え方は、「隣人を愛し、敵を憎め」といったものでした。イスラエルの社会で、「隣人」と言えば、それは自分と同じ民族で同じ神様を信じているイスラエル人のことを指します。つまり、人々は、「自分と同じイスラエル人は愛そう。けれども、そうでない人々は愛さなくてもいいよ。さらに、自分にひどいことをしてくる敵は、どんどん憎もう。呪っちゃおう」というふうに考えていました。そんな人々に対して、イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と仰られたのです。それは、「この人はイスラエル人だから愛する」、「この人はそうでないから、敵だから、愛さない、憎む」というふうに、愛に条件を付けるのは止めなさいということに他なりませんでした。イエス様は、そうではなく、すべての人を無条件に愛するよう、人々にお命じになったのです。それは、他でもない神様が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ことから明らかなように、すべての人を無条件に愛してくださるからに他なりません。イエス様はこの神様に倣って、完全な者となるように、そうして神様の子どもとなるように、人々に教えを語られたのです。
  では、ここで自分自身を振り返ってみて、私たちは日々の生活の中で、どれほど無条件に人を愛することができているでしょうか。そう思うと、自分に好意を持ってくれる人や自分に良くしてくれる人ばかり愛して、自分に意地悪してくる人は遠ざけている、自分も意地悪している、そんな普段の有り様が頭の中に浮かんでくるのではないでしょうか。思うに、私たちは愛において後出しじゃんけんばかりしています。相手がこうしてくれるから愛する。相手がこういう風にしてくるから愛さない。相手の出方で、自分の態度が決められてしまっています。けれども、主体的に生きるっていうのは、そういうことではありません。相手の出方に関係なく、自分が愛したいから愛する。自分がこういう風にしたいからこういう風にする。それが、主体的に生きるということなんだと私は思います。私たちには、そういう風にする意志の力が神様によって与えられています。神様は御自分のもと、みんなが主体的に生きて、無条件に人を愛すること、自分に意地悪して来る敵をも豊かに愛することを望んでおられます。
  こんな風に言うと、皆さんの中にはこういう風に考える人もあるかもしれません。「それは甘い。敵をも愛していたら、敵にもっと意地悪して来る隙を与えるだけだよ」と。けれども、愛には偉大な力があります。愛は敵を友に変えることのできる唯一の力なのです。
 ここで、私自身の話を語らせていただけるなら、私は小学校の頃、いじめられっ子でした。毎日学校でいじめられ、悪口を言われたり、叩かれたりしていました。そんな私が、どのようにしていじめから抜け出せたかというと、それは愛によってでした。私をいじめていたグループの中に、リーダー格の少年がいて、私にとってはまさに赦すべからざる敵だったのですが、ある時、この少年が大きな苦難に直面することになったのです。普通であれば、「ざまあみろ」というふうに考えたのかもしれません。けれども、私は彼が直面したその苦難の大きさに、普段の憎しみなどは吹っ飛んで、ともかく慰めなければ、励まさなければと寄り添いました。それが嬉しかったらしく、以後、私に対する彼の態度は一変しました。彼は私をいじめから守ってくれる大切な友だちになったのです。
  彼が困った時、私が憎しみに駆られて愛を置き去りにしていたなら、彼は私にとって敵のままであり続けたことでしょう。私たちは、憎しみを持って憎しみに立ち向かうことによっては絶対に敵を除くことはできません。私たちはただ愛によって、敵を取り除くことができるのです。愛には、敵を友に変えてしまう偉大な力が秘められています。
  これから先、皆さんは色々な人に出会うでしょう。良い出会いばかりとは限りません。人生には、自分に意地悪をしてくる敵に、思いがけず出会う時が訪れます。けれども、そのような時にも、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と仰られたイエス様のその御言葉を忘れずに、愛することを選び取っていきましょう。すべての敵を友に変えていく、そのような神様の子どもとして、皆で一緒に平和を生み出していきたいと願います。

 
 
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