降誕節第1主日(2016年12月25日)説教要旨  
 

「神様の愛に応えよう」
(ルカによる福音書2章8〜20節、マタイによる福音書2章1〜12節)
北村 智史

 本日は聖書の中から、2箇所を取り上げさせていただきました。ルカによる福音書2:8〜20とマタイによる福音書2:1〜12です。この二つの物語には、共通する点が含まれています。
 これらの物語に共通している最初のことは、イエス様と彼らの出会いが、彼ら自身の努力や能力によって実現したのではなかったということです。彼らは「星」あるいは「天使」という、彼ら以外のものの「導き」によって初めて幼子イエスに出会うことができたのでした。こうした事実が示してくれているように、イエス様との出会い、信仰への目覚めは、神様の方から私たちに近づいてきてくださるという出来事であり、神様が間に立って私たちをイエス様のもとへと導いてくださるという出来事に他なりません。実に、信仰とは、究極的には神様からの贈り物であって、私たちが自分の力で獲得するようなものではないのです。神様がまず、私たちを信仰に招いてくださる。私たちはそれを待つ存在なのだということを、マタイの「星」とルカの「天使」の物語は共に教えてくれています。
  さて、この二つの物語に共通する第二のことは、占星術の学者たちも羊飼いたちも、こうした神様からの招きに対して自覚的に応答した人々だったという事実です。「星」を見たから、あるいは「天使」が語ったからと言って、必ずしもすべての人が「星」や「天使」の示すもののもとへ出かけて行くとは限りません。ところが、この二つの物語には、ただちに神様の招きに従った人々が登場します。神様への応答に生きるために、学者や羊飼いたちは自分の仕事を中断し、自分の持ち場を離れ、自分の都合を後回しにしました。神様に応えるということは、優先順位を入れ替えるということです。クリスマスを迎えるということは、自分ではなく、神様に第一の優先順位を認めるということです。それが、マタイの「星」とルカの「天使」の物語が教える第二の共通点なのです。
  ここまで見てきたことを簡単にまとめるなら、「神様の招きが最初にあって、それに対して人間が応える」という構図が、これら二つのクリスマス物語に共通するものだと言えるでしょう。そして、このクリスマス、神様は私たち一人ひとりをもイエス様との出会いに招いておられます。私たちは自分の都合を後回しにして、ただちに神様のこの招きに応えていかなければなりません。
  このことを思う時、私はある一つのお話を頭の中に思い浮かべます。それは、神奈川県逗子市で私立の児童相談所を開き、子どもたちが幸福に生きるために労しておられた地主愛子さんという方の、クリスチャンの亡き父を偲んで語った次のようなお話です。
「わたし(地主愛子さん)が小学校三年生の時でした。高知刑務所を出てきたばかりの青年が、どこへ行っても雇ってもらえず、誰に聞きましたか、父(浜本)をたよってまいりました。日頃はいつも柔和な人で、父に絶対服従の母が、その時ばかりは反対いたしました。すると父は、きびしい表情で母をみつめ、『この子を今、わたしがつきはなしたら、また必ず罪をおかすにちがいない。今、わたしがこの子を救わなかったら、だれがいったいこの子を救ってくれるのか』とうとう母の反対をおしきって、その青年を雇ったわけです。父は青年を深く愛し、食事のときも私たちと一緒にテーブルを囲んで食事をしました。ところがです。その年の暮に、父が、その青年を集金に出しました。青年は、夕方になっても、夜になっても帰ってきません。集金をしたお金は、二百円でした。大正時代初期の二百円といえば、莫大な金額です。いまにすれば、一千万円余になりましょうか。母はすっかり顔色を失なって、『ごらんなさい、わたしがあれほど反対しましたのに、お聞きにならないから、こういうことになったのです。早く警察にとどけてください』その時、父はこういいました。『もし、今、わたしが届けたら、あの子は一生犯罪から足を洗えなくなる。朝までまってくれ。必ず帰ってくるよ』と。父は母をなぐさめ、朝まで、青年の帰るのを電気をあかあかとつけて待っていました。わたしたちも、とても寝つけなく、小さい胸をいためながら、彼の足音を待ちつづけました。朝になっても、とうとう青年は帰ってきませんでした。泣いている母に、父はやさしく声をかけました。『働けば二百円の金は帰ってくるよ。おりつさんよ(母の名―律子)、そう悲観しなさんな。わたしの悲しいのは、わたしの愛の足りなかったことだ。あの子に、また罪をおかさせたわたしの愛の足りなさが申しわけないのだ。そのわたしの心がわからないおりつさんではだめですよ』といって、『アハハハ、ハハハ』と笑ったんです。大きな目に涙をためて、『アハハハハ』と笑いとばした父の悲しみが、小学校三年生のわたしの魂をゆさぶりました」。
  恩を仇で返され大きな被害を与えられながら、なおその人を愛してやまなかった父の愛の深さ。けれども、私は思います。この愛は、他でもないイエス・キリストの愛ではないでしょうか。「今、わたしがこの子を救わなかったら、だれがいったいこの子を救ってくれるのか」、そのような悲壮な覚悟で御自分を十字架の上に犠牲にし、すべての人々の罪の贖い、救いを成し遂げてもなお、その恩を仇で返すように罪に走り続ける私たち。けれども、その度にイエス・キリストは、「裁くのは待ってくれ、必ず私たちのもとに帰ってくるから」と言って、神様に執り成しをされているのではないでしょうか。そうして、ちっとも神様のもとに、イエス・キリストのもとに帰って来ない私たちを、「わたしの愛が足りなかったのだ」と言って、なおも深く愛そうとされるのではないでしょうか。まことにイエス・キリストの愛の深さを知らされると同時に、これほど痛い思い、悲しい思いをさせてしまっていることを思い知らされます。
  クリスマスを迎えた今日、神様はこれほど深く私たちのことを愛されるイエス・キリストとの出会いに私たち一人ひとりを招いておられます。私たち、神様のこの招き、この愛にしっかりと応えて、イエス様が抱えておられる大きな痛み、深い悲しみを知っていきたいと願います。そうして、自らの罪を悔い改めて、神様に、イエス・キリストに立ち帰っていきたいと願います。救い主イエス・キリストがお生まれになった今日、このイエス・キリストと共に、未だ世界に罪が溢れ続けている今を変えていくその決意を新たにしたいと願います。

 
 
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