降誕節第10主日(2017年2月26日)説教要旨
 

「どちら向きの舟に乗っているのか」
(ヨナ書1章1〜16節・マルコによる福音書4章35〜41節)
北村 智史

 ヨナ書1:1〜16とマルコによる福音書4:35〜41、これら二つの記事を読みますと、同じ船に乗って嵐に遭うお話であっても、両者が興味深い対照を成していることに気付かされるのではないでしょうか。ヨナ書の中で、ヨナは「悪の都ニネベに行って神様の裁きを語りなさい」という命令を神様から受けます。けれども、ヨナはこの神様の命令を拒否して逃れようとします。そうして、彼は、ニネベの反対、タルシシュへと向かい、その途上で嵐に襲われるのです。
  一方、マルコによる福音書の中で、イエス様の乗った舟もまた嵐に遭います。しかし、その舟は、「向こう岸に渡ろう」という主の呼びかけに従って、「向こう岸」、すなわち「ゲラサ人の地方」、異邦人の地へと漕ぎ出していました。
  ヨナはタルシシュ行きの船に乗り込んだことで、「これで神様から逃れられた」と安心しきって眠りこけていました。一方、イエス様は父なる神様に信頼しているがゆえに、平安の内に「艫の方で枕をして眠っておられ」ました。嵐に遭うことも、眠っていることも、ヨナ書とマルコによる福音書の記事では共通しています。けれども、中身がまるで対照的です。
  こうしたお話を通して、私たち教会は問われているのではないでしょうか。はたして、私たちはどちら向きの船に乗っているのだろうかと。ある方は、教会といえば、神様に祝福された群れなのだから、すべての歩みが神様に守られて順風満帆にいくというふうに考えるかもしれませんが、もちろんそんなことはなくて、教会もその歩みにおいてしばしば嵐に見舞われることがあります。
たとえば、私が学生時代に通っていた母教会では、会堂建築で嵐に見舞われました。だいたい東京府中教会と同じくらいのこぢんまりとした教会だったのですが、平均礼拝出席が多くなり、礼拝堂に人が入りきらなくなってきたのです。嬉しい悲鳴と言えば、嬉しい悲鳴なのですが、そのために他の大きな土地を探して、教会を移転することが諮られました。しかしながら、現在の土地が駅前という好立地であったことに加え、故人がもともと教会があった土地と等価交換してくださったという思い入れの深い土地であったため、教会は揉めました。教会創立当初からいて、現在の土地に思い入れのある方々と、新たな土地に移って新たに宣教に励んでいきたい方々とが、真っ二つに別れてしまったのです。役員会は紛糾し、一日で終わらず、二日に分けて開催される日々が続きました。教会総会も揉めに揉め、一日で終わらず、二日に分けて開催されたこともありました。そうした雰囲気が続く中で、教会から遠ざかってしまう方もおられたように思います。
  これが、私が母教会で経験した嵐ですが、先月発行された70年記念誌を読んで東京府中教会の歴史を振り返ってみますと、この東京府中教会にもかつて嵐が吹き荒れたことがあったことが分かります。それは、初代牧師の大久保末先生が亡くなられた時から始まりました。この時、きく夫人が副牧師から正牧師に就任し、牧会に当たられましたが、保育園の方があるから大変でした。近隣の教会の牧師など、多くの方々がきく牧師を支えましたが、それから数年して、今度はきく牧師が、わずか数日の入院治療中に突然召されてしまいました。それから、千葉温牧師が招聘されるまで、教会は様々な方々に支えていただきながら、無牧の時代を過ごさなければなりませんでした。
本当に、どこの教会であっても、教会は嵐に見舞われることがあることを思わされます。そして、私は、こうした嵐に遭うたびに、私たちは自分たちが今どちら向きの船に乗っているのかを考えなければならないように思うのです。神様の御心のゆえ、神様の言葉に従って漕ぎ出したところで嵐に遭っているのか。御心に反し、与えられた使命から遠ざかる途上で嵐に遭っているのか。私たちは見極めなければなりません。肝心なのは教会という船の向きです。向きが正しいのであれば、嵐を恐れる必要はありません。神の国を告げるために向こう岸へと渡っていくのです。主が共に船に乗っておられます。主の言葉は風と波に打ち勝つのです。けれども、教会という船の向きが誤っていて、タルシシュに向かうようであれば、すなわち神様の御心から遠ざかっていくようであれば、たとえ自分は平気だとたかをくくって船底で寝ていたとしても、「何をやっているのだ」とたたき起こされることになります。お前が張本人だと責任を問い詰められ、海へと投げ捨てられるような結果に陥るかもしれません。嵐が、自分の真剣な方向転換を求める神様の怒りの暴風であるということに目覚めなければなりません。
  嵐のたびに私たちは、教会という船の向きが今どちらを向いているのかに思いを馳せたいと願います。そうして、神様の御心から遠ざかっていく途上で嵐に遭っているのであれば、すぐに教会を挙げて悔い改めを捧げたいと願います。そのような嵐は、私たち教会に本当に悲惨な結果をもたらしかねないからです。けれども、神様の御心、御言葉に従って船を漕ぐ途上で嵐に遭っているのであれば、私はそこで、教会を挙げて神様にお委ねするということを学びたいと願います。神様が必ず私たち教会を守り、導きを与えてくださるからです。
  私の経験上、向きさえ正しければ、そこで遭う嵐は、良いものと言うことはできませんけれども、後で振り返ってみて、教会にとってかけがえのない経験になります。プラスに働きます。嵐を通して、私たちは確実に波風を静められるキリストの言葉の力を知り、キリストをより深く知るようになっていくことでしょう。そうして、信仰を深められることでしょう。
  今日も、私たち東京府中教会はこの世に向かって船出していきます。願わくは、どんな時も、神様が「行きなさい」と言われる方向を目指して、皆で一緒に船を漕いでいきたいと願います。そのただ中に、神様はいつも共にいてくださって力を与えてくださいます。

 
 
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