聖霊降臨節第8主日・礼拝説教要旨(2017年7月23日)
 

「変わる正義」
(エレミヤ書7章1〜7節)

北村 智史

 標記の聖書個所(エレミヤ書7:1〜7)は、旧約聖書の有名な預言者エレミヤが神殿批判の預言を行った有名な個所です。この時の出来事は、エレミヤ書26:1〜19にも記されていますが、この中の26:1によりますと、エレミヤがこのように神殿批判の預言を行ったのは、「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初め」のことでした。この時の歴史的な状況を簡単に説明しておきますと、宗教改革を行ったことで知られるユダ王国の聡明な王様ヨシヤは、紀元前609年に、エジプトと戦ったメギドの戦いであっさりと戦死してしまいます。ユダ王国の人々は、失意の中、ヨシヤ王の第二王子のヨアハズを王位に就けました。しかしながら、このヨアハズは、たった3か月で、エジプトのファラオ・ネコによって廃位させられてしまいます。ヨアハズを廃位させたファラオ・ネコは、統治者として欠けのあった第一王子のエルヤキムを王位に就け、彼の名をヨヤキムと改めさせて自らの傀儡政権としました。このように、ヨシヤ王の死、ヨアハズの廃位、ヨヤキムの即位と重大な出来事が続いた紀元前609年は、ユダ王国にとって、暗い容易ならぬ日々の到来を予測させる年だったのです。しかし、ヨシヤ王の時代にユダ王国唯一の聖所とされたエルサレムの神殿には、厳しい事件が相次いだ年が明けると、多くの人々が集まって来ました。新しい年に、神様の祝福と保護を求めるためです。そんな人々に対して、エレミヤは本日の聖書個所にあるように神殿の門に立って、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という神様の言葉を語り聞かせたのです。
  では、なぜ神様は、エレミヤを通して人々にこのように語りかけたのでしょうか。実は、当時、人々の間には、「エルサレムの神殿は、ヤハウェがその名を置くために建てさせたものであるから、神様、ヤハウェはこれを異邦人の手に渡して汚されることをお許しになるはずがない。この神殿はエルサレムが永久に守られ、安全であることの保証である。今、国はヨシヤ王が戦死したり、エジプトによってヨアハズが廃位させられたり、傀儡王のヨヤキムが即位させられたりと危機が続いているが、神殿がある限り国は安全なのだ。神殿で礼拝さえ守っていれば、私たちには何の災いも降りかかって来ないのだ」と考える、そのような非常に楽観的とも言えるような迷信が強調されていました。そして、この迷信の中で、神様との契約が蔑ろにされてしまっていたのです。律法は守られることなく、様々な不正義が溢れかえっていました。神殿で捧げられる礼拝も、神様との契約、その恵みと大切さを思い起こさせるような内実のあるものとはならず、単なる形式的なものに堕落してしまっていました。このような状況を前にして、神様は、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という言葉を、エレミヤを通して人々に与えられたのです。
  神様は言われます。「お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる」。「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる」。今の苦難の中で、神の民イスラエルが救いを見出す道は、神様の契約の要求に忠実に従い、正義を行う以外にはない。正義を蔑ろにして、神殿およびその礼拝を頼りにしても、それは何の役にも立たない。神様は、エレミヤを通して、このことを人々にはっきりと告げられました。さらに、本日の聖書個所の後の箇所で、神様はエレミヤを通して言われます。「お前たちは神殿で礼拝を捧げ、『これで自分たちは救われた』と安心しているが、あらゆる不正義を行っているではないか。そのように不正義を行いながら捧げられる礼拝に、何の力があると言うのか。そのような礼拝が捧げられる神殿に、何の力があると言うのか。そんな神殿は、私にとって、自分の名を置く聖なる場所ではなく、単なる強盗の巣窟にしか見えない。そのような神殿を、私はかつてシロの聖所を滅ぼしたように滅ぼし、お前たちユダ王国も北イスラエル王国を滅ぼしたように滅ぼしてしまうだろう」と。
  大変厳しい、恐ろしい預言です。しかしながら、この預言を通して、私たちは神様について大切なことを学ぶことができます。神殿があれば、正義を行わなくてよいということではない。神様を礼拝すれば、正義を行わなくてよいということでもない。神様は神殿、礼拝に先んじて正義を要求される御方であるということです。実際、聖書の中で、神様は幾度にもわたって、「不正のゆえに、私はお前の礼拝を退ける」ということを預言者に言わせています。たとえば、アモス書の5:21〜24です。
  「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。/祭りの献げ物の香りも喜ばない。/たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。/お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。/竪琴の音もわたしは聞かない。/正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」
また、ホセア書の6:6にも、次のような神様の言葉が記されています。
  「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」
  実に、神様は正義そのものであり、神殿や礼拝を正義と切り離して考えることはできません。礼拝者は正義を行う者でなければならず、神殿は正義を行う者が礼拝を捧げる場でなければならないのです。神殿もそこで行われる礼拝も、共に正義で満ち溢れていなければ、神様はこれらを御自分の前から退けられます。
同様のことは、今日の教会にも当てはまるのではないでしょうか。私たちの教会も、そこで行われる礼拝も、共に正義で満ち溢れていなければ、神様は決して満足されないと私は思います。もしも私たちが、教会を頼りにしていれば、また教会で礼拝を捧げていればそれで救われると考えて、正義を行うことを蔑ろにし、不正義ばかり行っていれば、やがて神様は私たちの教会や礼拝を御自分の前から退けられることでしょう。神様に満足していただくために、教会に集う者、礼拝を捧げる者は、積極的に正義を行っていかなければなりません。そうして、教会も礼拝も、共に正義で満たしていかなければなりません。
  しかしながら、このことを思う時、私の頭の中にはある一つの懸念が思い浮かんできます。それは、「正義を行え」と言われても、肝心のその正義が人によってころころと変わるということに他なりません。
 皆さんもご存じのように、昨年の7月26日に、神奈川県相模原市にある障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」で、刃物による殺傷事件が発生しました。19人もの尊い命が奪われ、26人が重軽傷を負わされる、戦後最悪といっても過言ではない痛ましい事件が発生したのです。では、この事件の犯人は、自分がとんでもない悪を犯していると考えながら犯行を行ったのでしょうか。決してそうではありません。彼は逮捕された後に、「障がい者は役に立たず、精神的にも肉体的にも経済的にも、周囲の者に、また社会に負担をかけるだけの存在だ。そんな障がい者は安楽死させるべきだと考えて犯行に及んだ」といった趣旨の供述をしていますが、彼はそのような正義を振りかざして犯行を行ったのです。私たちからすれば本当に勝手な、とんでもない正義ですが、彼はこれこそ正義と信じて、自らの犯行を行ったのでした。
  このように自らが正義と信じて痛ましい事件を引き起こすのは、テロリストも同じでしょう。彼らはこれこそ正義であり、神様の御心に適うことであると信じて、自爆テロなどを行います。そして、残念ながら、このテロを受けたアメリカのブッシュ大統領も、”God bless America!”と叫んで、自分たちの行いこそ正義であり、神様の御心に適うことだと信じて、戦争という罪悪を行いました。私たち人間の歴史を振り返ってみれば、「これこそ正義だ、神様が望まれることだ」、このような叫びをもって何と多くの罪悪が犯されてきたことでしょう。それは、教会といえども例外ではありません。十字軍や宗教裁判など、教会はこれまで、「これぞ正義、これぞ神様の御心」と叫んで数多くの罪悪を犯してきました。それは、今日でも変わりません。教会政治の場に出れば、偏った思想の人たちが、「これこそ正義だ。神様のためだ」と信じて、正義とは程遠い不正義なことをし続けています。
 自分にとっては不正義としか思えない事柄も、他人にとっては正義となりうる。逆もまた然りであり、他人にとっては不正義としか映らない事柄も、自分にとっては正義となりうる。本当に、「正義」という言葉ほど、移ろいやすいものはない。本当に人というのは、神様という存在、正義という言葉を自分に都合の良いように持ち出してくる罪深い存在なのだなあということを思わされます。こうした人間の罪をご存じだからこそ、神様は十戒の中で、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒めになったのでしょう。私たちは今こそ、自分ではなく神様の視点から、自分の行いが本当に正義か、本当に神様のためになっているかを見ていくことを学ばなければなりません。このことを学んで初めて、私たちは本当に正義を行っていくことができるのです。神様のために行動していくことができるのです。
  願わくは、神様が私たちを導いてくださって、私たちに本当の正義を行わせてくださいますように。私たち、神様の視点から絶えず自分を見直していく目を与えられて、この礼拝を、また教会を正義で満たしていきたいと願います。

 
 
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