聖霊降臨節第17主日(2017年9月24日)礼拝説教要旨

 

「愛は分け隔てしない」  
(ヤコブの手紙2章8〜13節)
北村 智史

 教会に2人の求道者がやって来た。片方は、「金の指輪をはめた立派な身なりの人」だった。しかし、もう片方は「汚らしい服装の貧しい人」だった。すると、受付の人は、この二人の取り扱いに差をつけた。ヤコブの手紙2:1〜4には、このことを強く戒めるお話が記されています。こうしたお話は、見てくれで人を判断し、取り扱いを変える人間の醜さをよく表したものだと思うのですが、こうしたお話は決して昔だけのものではなく、今の教会にもしばしば起こっていることだと私は思います。実際、私たちは、立派な身なりの人が教会にやってくれば、「ようこそおいでくださいました」と喜んで丁寧にお迎えするけれども、ホームレスの方がやって来た時には、「うわ、かなわんな」といったような気持ちでぞんざいな扱いをしてしまってはいないでしょうか。
  この世の人々は、人間を見分けるということをします。目の前の人を観察し、区別し、序列化し、相手によって態度を変えます。そのことによってある人を重んじ、ある人を軽んじます。そして、私たちは多くの場合、特段それが悪いことだとは考えていません。しかし、どれだけの人々がそのことで傷つけられ、そして私たちはどれだけの人々を傷つけてきたことでしょう。悲しいことに私たちは本質的にそのような傾向を持っています。しかし、それはイエス・キリストが私たちに求めるあり方ではないし、ヤコブの手紙の著者もまたそれを見過ごしにはしないのです。
  ヤコブの手紙の著者は語ります。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさったではありませんか」と(2:5)。実際、聖書を読めば、神様が貧しさとか恐怖、悲しみ、不安、差別、いじめなどといった苦しみのもとに置かれた人々の側に立ち、これらの人々を何よりもまず愛する方であることがよく分かります。神様は「世の貧しい人たち」を何よりもまず救いの対象に選ばれました。それなのに、分け隔てをして「貧しい人を辱め」るのは、この神様の選びの業を蔑ろにし、その神様の御業を妨害することにもなりかねないことです。ヤコブの手紙の著者が分け隔てすることを強く戒めるのは、こうした理由からに他なりません。
  そして、標記の聖書個所(2:8〜13)の中で、ヤコブの手紙の著者は、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を掲げてこれをどんなに実践していても、たった一点、人を分け隔てするという罪を犯すなら、この律法に違反したことになると語ります。また、一つの戒めに対しても落ち度があるならば、その他のすべての戒めを守っていたとしても、すべての点で違反者、有罪と断定されると語ります。こうして、人は極めて具体的な生活態度が問われることになります。自らの言動一つひとつが大きな意味を持ち、人はその言動の一つひとつに対して、裁きの時に責任を取らなければならない、「人に憐れみをかけない者」、すなわちイエス・キリストから与えられた憐れみを感謝を持って受け止めつつ、これを他者に分け与えない者には、来るべき裁きの時に憐れみの無い裁きが下されるとヤコブの手紙の著者は警告します。人々がこの手紙を読み、この地上において憐れみの行動を示すようになることによって、終わりの日の裁きに打ち勝つこと、これがヤコブの手紙において著者が望んだことでした。
  こうしたヤコブの手紙の一連の文章を読みまして、私は猛烈に襟を正される思いがいたしました。既に記しました通り、人を差別し、分け隔てしてしまう問題は、決して過去だけの問題ではなく、今の私たちの間でも実際に起こっている問題です。ホームレスの方が来られた時、私たちはこの方を喜んでお迎えすることができているでしょうか。むしろ、「お金をくれと言われたらどうしよう」とか「お金をあげて仲間を連れてこられたら、あるいは毎日来るようになったら対処できないな」とか、色々なことを考えて、できれば関わり合いを避けたいと思ってはいないでしょうか。そうして、取り扱いに差をつけてはいないでしょうか。このように、私たちは教会において高邁な隣人愛と正義の理想を語り、愛に満ちた祈りを捧げていますが、それをしている自分自身の中に差別的な思いが巣くっていることをしばしば思い知らされます。しかしながら、そのように差別的なものの見方をすることが、神様の律法からすれば決して軽い違反ではないこと、他の神様の御心に適う行いをも台無しにしてしまうほどの重い罪であることを、ヤコブの手紙の著者は鋭く指摘しています。こうした御言葉を聞く私たちは、自らの中にある差別意識と常に向き合うことが求められています。
  私たちは教会を、似たような境遇の人たちだけが集うサロンのような教会にしてしまってはいけません。ホームレスに同性愛者に障がい者など、教会はあらゆる人々がそこで受け入れられ、共に神様を讃美する群れでなければならないのです。
そもそも、私たちはなぜあらゆる人々を受け入れるのでしょうか。それは、イエス様御自身がその生涯においてそのようにされたからに他なりません。イエス様の愛は無限です。ある特定の人々の間にだけ限定されるものでは決してありませんでした。イエス様はその生涯でもって私たちに、本当の愛とは分け隔てしないものであることを教えてくださったのです。私たちが誰かを差別して、愛において分け隔てをしてしまいそうになる時は、イエス様が教えてくださったこの愛を思い出しましょう。どんな隣人をも蔑ろにしない、すべての隣人と誠実に向き合って共に生きていこうとする教会をこの府中の地に築いていきたい。そうして、来たるべき裁きの時に、神様に「よくやった」と大いなる祝福を与えられたいと願います。

 
 
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