聖霊降臨節第18主日(2017年10月1日)説教要旨
 

「愛の言葉を語る者に」
(エフェソの信徒への手紙5章1〜5節)
北村 智史

 標記の聖書個所(エフェソの信徒への手紙5:1〜5)には、様々な生き方に関する教えが列挙されていますが、この中でも、今回私は、言葉に関する教えが気になりました。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」。
  実に、耳の痛い言葉です。ここで、自分自身を振り返ってみて、私たちは日々の生活の中でどれほど神様の御心に適う言葉を語ることができているでしょうか。このことを思う時、私は、日々の生活に対する不満、人に対する不満など、様々な不満、マイナスの感情に囚われて、人を傷つける言葉、汚い言葉ばかり話している、あるいは、「何でこうじゃないんだ。もっとこうであればいいのに。ああであればいいのに」と貪欲なことばかり口にしている自分自身のその醜さに気付かされるのです。日々の生活の中で、私たちの口を突いて出ることは、なんと卑しく身勝手な言葉ばかりであることでしょうか。そして、何と無意味でくだらない言葉ばかりであることでしょうか。それらは必ずしも粗野で乱暴な言葉とは限りません。私たちは飾り立てた美辞麗句によってでも愚劣で悪意に満ちたことを語ることができるのです。私たちが無意味な言葉をまき散らし、その言葉で他人を傷つけたり、他人を責めたりしている時、私たちは自分自身をも傷つけています。その反面、いったいどれだけの感謝の言葉が、そして讃美の言葉が私たちの口から発せられているでしょうか。
  「それよりも、感謝を表しなさい」というエフェソの信徒への手紙の言葉が胸に響いてきます。常に神様への、また他人への感謝を語り、神様を讃美する人の何と良き香りを放っていることでしょうか。それは、まるで「香りのよい供え物」となられたイエス・キリストのようです。腐臭に満ちた言葉をまき散らす他でもないこの私も、そのような言葉を口にする者となれるでしょうか。
  なれるはずです。なぜなら、私たちは神様に愛されている子どもなのですから。私たちは愛を知らずに育ったのではなく、憎しみの中に育ったのでもなく、慈愛に満ちた神様の豊かな愛の中で育まれているのですから。私たちはイエス・キリストに抱き上げられ、祝福されてきた子どもなのですから。だから、私たちは神様に、また他人に、感謝すべきことを知っているはずなのです。
  さらに、聖書は語ります。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と。神様の、イエス・キリストの愛を知り、感謝の言葉に溢れるようになった人間は、イエス・キリストと同じように愛に生きる者とならなければなりません。そうして、人を建て上げる愛の言葉をも語る者とならなければなりません。
  しかしながら、これは決して簡単なことではありません。私も牧会者として、また一人のキリスト者として、隣人愛に生きよう、そうして、人に愛の言葉を語ろうと努めていますが、たとえば苦難の中にある人に「お祈りしています」という言葉をかけたとしても、その言葉が空しく響くと言いますか、「ああ、今、自分の語っている言葉が全然愛の言葉になっていないなあ、上っ面だけの言葉になってしまっているなあ」と感じる時が多々あります。そういう時は、私は、まだまだ自分のやるべきことがやれていないんだ、もっともっとこの人に寄り添っていかなければならないんだというサインだと捉えて、たとえばお見舞いのお葉書をお書きするなど、自分にできることを精一杯探して行うようにしています。そうすれば、同じ「お祈りしています」という言葉でも、また違って響いて来ると思うのです。
  私たちは愛すると言っても、自分がしんどくない範囲内で愛するとか、面倒でない範囲内で愛するとかいったように、しばしばその愛を自分に影響のない範囲内に止めようとします。しかしながら、そのような愛では、私たちは聖書の言う「人を造り上げるのに役立つ言葉」(エフェソの信徒への手紙4:29)とか、人を生かす言葉、人を建て上げる言葉を語ることはできません。本当にその人と同じ地平に立って、痛みを共にして、出し惜しみの無い愛を注がなければ、自分の語る言葉に神様が宿ってはくれないのです。
  先月、東京府中教会で説教、講演をしてくださった加藤常昭先生は、ある講演会の中で牧師というのは生涯言葉を磨いていく職業だと仰っておられましたが、生涯言葉を磨いていくのは牧師だけではないでしょう。すべてのキリスト者が愛によって、自らの言葉を、神様を宿した心に沁み込んでいく言葉へと磨いていくべきなのです。この礼拝の一時、私たちを無償で救ってくださった、そして、日々私たちを救いへと導いてくださる神様の愛を改めて心に留めましょう。そうして、私たちの語る言葉を、汚い言葉から感謝の言葉に、さらには人を生かす愛の言葉に変えていきたいと願います。

 
 
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