降誕前第8主日(2017年11月5日)聖徒の日・永眠者記念日礼拝説教要旨
 

「三段階の信仰」
(ルカによる福音書7章1〜10節)
北村 智史

 標記の聖書個所(ルカによる福音書7:1〜10)を読みますと、私は百人隊長の信仰が、この短いお話の中でどんどんと深まっているように感じます。「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(3節)。この時、百人隊長の心にあったのは、「求める信仰」に他なりません。「神様、あなたのことを信じます。ですから、どうか私の願いを聞いてください」。こうした信仰は、私たちの多くが教会の門を叩いた時に抱いていたものではないでしょうか。実に、「求める信仰」こそ、私たちが抱く信仰の第一段階に他なりません。
  しかし、信仰におけるこの段階では弱さもあります。神様に対して、神様が自分たちをどのようにお救いになるべきか、どのように祈りを聞かれるべきかということを指示してしまうのです。「これこれ、こういう風にして、こういう結果にしてください」。このように祈り、神様がどのように自分を祝福すべきであるかという道を愚かにも決めてしまいます。そうして、その願望が叶えられなかった時、信仰に躓いてしまうのです。
 標記の聖書個所の中で、当初はこのような「求める信仰」を抱いていた百人隊長でしたが、話が進んで行く中で、彼の信仰は深まっていきました。6〜8節の百人隊長の言葉には、「神様の御言葉にお委ねする信仰」がはっきりと窺えます。
 百人隊長はその立場から、言葉の重みというものを本当によく知っていました。王様から権威を託されているがゆえに、自分が命じればその言葉は僕たちの上に実現する。それと同じように、いや、それ以上に、神様から権威を託されているイエス様の御言葉も、神様に従う僕たちの上に必ず実現する。それゆえ、たとえイエス様にお目にかかることができなくても、お会いすることができなくても、イエス様の御言葉をいただくことによって自分は、また自分の部下は救いを受けることができるはずだ。この段階で、彼はこのことを強く確信しています。そして、こうした「神様の御言葉にお委ねする信仰」こそ、私たちの信仰の第二段階に他なりません。
  私たちには、イエス・キリストを通して神様の確かな御言葉が与えられています。「私は自分の愛する独り子を十字架につけてまで、あなたを救いへと定めた。あなたは私の救いの中にいる。たとえどのようなことがあろうとも、私は必ずあなたを救いへと導いていく」。イエス・キリストの十字架を見つめる時、他でもない私にこのように語りかけられる神様の御言葉が聞こえてきます。教会の中で信仰を育まれたキリスト者は、この御言葉に自らをまったく委ねるのです。
  神様を深く信じていても、幾度もの試練がこれらの人々を襲うでしょう。しかし、そこに恐れはありません。これらの人々は神様に救いを求めますが、同時に、神様の御言葉が必ず成就すること、すなわち自分の先には神様によって必ず救いが備えられていることを確信しています。その救いは、自分が思い描いていたようなものとは違うかもしれません。けれども、自分は必ず救われると信じて、苦難の中にも心静かに、温かな希望を持ってその救いを待ち望みます。このような「委ねる信仰」を通して与えられる魂の静けさと安らぎをぜひ皆さんにも味わっていただきたいと思います。
  さて、ここで私は、信仰における最後の段階についてお話しをしたいと思います。本日の聖書個所9節には、このように記されています。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」イエス様のこの言葉を聞いて、人々は心に深く信仰の種を蒔かれたことでしょう。私たちの信仰の第三段階、それは「種を蒔く信仰」に他なりません。
  実際、私はこれまで教会で信仰生活を過ごす中で、苦難の中にあってもまったく神様に自らをお委ねし、希望を持って前向きに生きておられる方々の信仰に触れ、良き感化を与えられてきました。私たちの信仰を豊かに育んでくださる神様の温かな御手のもと、「委ねる信仰」は、さらに人の心に「種を蒔く信仰」へと昇華していきます。最上の信仰は、その人個人を救うのみならず、その個人に関わる他者をも救いへと導いていくのです。私たちは、かつては自分の救いのためにだけ信仰を持っていた人だったかもしれません。しかし、この段階に到達すると、私たちは恵み豊かな福音宣教者として、神様に豊かに用いられるに至ります。
  信仰はよく徒競走にたとえられますが、それはフラットな道をひた走る競争というよりはむしろ、「求める信仰」から「委ねる信仰」へ、そして人の心に「種蒔く信仰」へ、こうした三段階の信仰の階段、信仰のはしごを、皆で一緒に駆け上がって行くような類いのものではないでしょうか。その先にあるのは、神様の救いです。信仰の階段、信仰のはしごを上り切った先で、神様は私たちに賞を用意して、私たちを御自分の胸の中に安らかに憩わせるべく、諸手を広げて待っておられるのです。
  本日お写真が飾られた信仰の先達たちは皆、この栄光に浴されました。彼らは走るべき信仰の道を走り終え、上るべき信仰の階段、はしごを上り終えて、今は天上で神様を直接仰ぎ見ながら礼拝する恵みに与っておられます。そして、私たちもまたこの救いに至ることができるように一人ひとりを見守ってくださっています。神様の温かな慈愛の御手に守られ導かれながら、また天上の友に見守られながら、皆で一緒に信仰の階段、信仰のはしごを一歩一歩上って行きたい、そうして、やがては天上の友と相見える喜びに、また神様のもとで神様を礼拝しながら永遠の命に憩う喜びに与りたいと願います。

 
 
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