待降節第4主日(2017年12月24日)クリスマス・燭火礼拝説教要旨
 

「系図に見られる信仰」
(マタイによる福音書1章1〜17節)
(ルカによる福音書3章23〜38節)

北村 智史

 今日はマタイによる福音書とルカによる福音書に記されている二つの系図を取り上げて、そこにどのような信仰が込められているか見ていきたいと思います。
  さて、ではまずマタイによる福音書の系図を見てみましょう。この系図の中に登場する人物像をよく知る人は、よくぞこのような系図を掲げたものだと思うに違いありません。私たちの常識では、立派な人の家系には、家名を損なうような者の名前があってはならないと考えます。しかし、マタイによる福音書が記すイエス・キリストの系図には、罪を犯した悪名高い王様の名前も出てきます。その意味からすると、これはとんでもない家系図だということになります。しかし、ここに初代教会が伝えたかったメシア像があるのです。
  人の歴史が決して綺麗ごとでは済まないことを、罪を犯した悪名高い王様たちの物語は伝えてくれています。メシアは、まことに地上のおぞましい罪の中に生まれてくるということでもあります。マタイによる福音書に記されているイエス・キリストの系図は、神様が働かれる現実の場が、実はこういう人間の影のようなところであることを言外に教えてくれているのです。
  さて、では次に、ルカによる福音書に記されている系図の方を見てみましょう。ここには、神様、イエス様に対するどのような信仰が込められているでしょうか。ルカの系図を見ていく上でまず押さえておかなければならないのは、マタイの系図が、旧約に慣れ親しんでいるユダヤ人たちを念頭に置いて記されているのに対し、ルカの系図は広く地中海世界に住む人たちを念頭に置いて記されているということでしょう。ルカの系図はヨセフから逆に遡り、アダムを経て神様に至っています。このように、この系図が誕生の今から創造の源までを辿っているのは、イエス様こそ神の子であることを地中海世界に住む人たち全員に分かり易く示したかったからに他なりません。マタイの系図は、ユダヤ人たちに、イエス様こそ旧約に預言されたメシアであることを伝えようとしたものですが、ルカの系図は、広く地中海世界に住む人たち全員に、イエス様こそ神の子であることを伝えようとしたものだったのです。
  このように、ルカによる福音書の記者とマタイによる福音書の記者は、それぞれ違う角度から救い主の姿を見ていますが、彼らが伝えたいことは要するに、神様は人間の生きた歴史に働き給う御方であって、その御方は誰であるかということなのです。
  救い主であるイエス様の系図に、罪を犯した悪名高い王様など、いわば汚点とも言うべき過去の歴史をありのまま記載し、それについて一切弁解がましいことを言わないのは、聖書がいかに成熟した信仰を持っているかを示していると言えるでしょう。信仰のあり方が成熟しているかどうかを判断する目安は、その信じる宗教が辿って来た歴史に責任を持つかどうかで決まると言われます。
  キリスト教と言えども、過去の歴史を辿れば、多くの罪を犯してきました。間違った判断を教会がしたこともあるでしょう。旧約聖書を見れば、そうしたことは歴然としています。血で血を洗う争いの記録を至る所に発見します。カインのアベル殺しに始まり、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討つ」という殺戮の雄叫びを私たちはどのように聞くのでしょうか。旧約の歴史だけではありません。教会は信仰の名において、いくつもの誤った判断をしてきました。プロテスタントとカトリックの争いが傷つけ合いとなり、殺人となった事件は、幾つも数えることができるでしょう。初代教会時代、異教徒の女性を陶器の破片で傷つけ殺したという、目を覆いたくなるような残虐行為さえも記録に残っています。中世以降の宗教戦争はどうだったでしょうか。まったく関係のない庶民が命を落としたと言われています。ボヘミアの宗教改革者フスの処刑も痛ましい事件です。さらに近現代においても教会は、教派間の対立も含め、様々な誤りを犯してきたことを認めざるを得ないでしょう。
  これをいちいち正当化するのでしょうか。あるいは、こうした歴史をすべて過去のことにして、今の私たちとは関係のない事柄にしてしまうのでしょうか。しかし、そのようにしても、過去は決して消し去ることはできません。成熟した人間は、自らの影の部分をなお自分自身のものとして包括することができると言われます。影とは、見たくない自分自身の部分のことを言います。それを包括するとは、その部分もまた他でもない私の責任の中にあるということに他なりません。少なくともキリスト教を持って信仰生活を送ろうと志す者は、キリスト教が持つ過去の歴史の汚点から目を背けるべきではありません。過去2000年の教会の歴史、さらに旧約の歴史にまで遡るなら、その長い歴史に責任を持ち、そこから目を背けないことです。そのようにしてのみ、これからこの世界においてキリスト教が歩んで行くべき正しい道が示されていきます。救い主は過去の全歴史をひっさげてこの世に来てくださったことを忘れるべきではありません。救い主であるイエス様の系図は、何よりもそのことを私たちに教えてくれています。
  このクリスマス、私たち、教会の過去の負の歴史をしっかりと責任を持って受け止めるという作業をしたいと思います。そうして、これからはどのように世界の幸せに貢献していけばいいのかを考えていきたいと願います。

 
 
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