降誕節 第4主日(2018年1月21日)教会創立記念礼拝説教要旨
 

「死の向こう側にある命」
(ルカによる福音書 2章22〜38節)

北村 智史

 標記の聖書個所(ルカによる福音書2:22〜38)には、まだ幼子であったイエス様が、神殿でシメオンとアンナという二人の信仰深い老人から盛大な歓迎を受けたことが記されています。この二人に共通しているのは、人生の老いのプロセスを神様のもとで美しく生きていたということです。これは、決して当たり前のことではありません。
  通常、老いというものは若さを享受することに価値を置いた社会にあってはマイナスの出来事であり、凋落のしるしです。年を取れば健康を奪われ、仕事は無くなり、すべては衰えたようになります。また、老いるに従って色々な面で、できなくなることが多くなります。若さを謳歌することに価値を置く社会では、これは大変ショックな出来事であり、私たちは老いることに抵抗したくなります。しかし、いくら抵抗しても、年には敵いません。橘覚勝という人は、『老いの探求』という本の中でこんな狂歌を詠んでいます。「くどうなる、気短になる、愚痴になる、思いつくことみな古くなる。聞きたがる、死にともながる、淋しがる、出しゃばりたがる、世話やきたがる。身にあうは頭巾、襟巻き、杖、眼鏡、湯たんぽ、温石、溲瓶、孫の手」。年寄りをいささか揶揄した歌ではありますが、年を取るのに抵抗しつつも、結局は勝てずに衰えていく様を有り体に表現した狂歌と言ってよいでしょう。
  スイスの精神科医ポール・トゥルニエは、『老いの意味』という著書の中で、「老いるとは、未完了の仕事を受容するプロセスである」と言っています。未完了の仕事を受け入れていかないと、上手に年を取ったとは言えないということです。年を取れば取るほど、思いを残すことも多くなります。人生にやり残したこと、「できることなら違う人生を送りたかった」という思い、「残された者を思うと、まだまだ死ねない」と思ってしまう生活など、未完了の仕事は、安心して死ぬことをなかなか許してくれません。年取った者は、老いが喪失のプロセスであることをそのまま認めて、受容する生き方を身に着けなければなりません。その意味で、認めがたいことを認める成熟性が年を取った者には殊のほか求められるのです。
  老いの先には、やがて死が訪れます。死は、誰にとっても避けることのできない人生の終わりです。訪れる死を凋落の極みとするか、あるいは、そこからまた新しい世界に向かって死を超えていくのか、人は問わねばなりません。シメオンとアンナは、人生の終わりに幼子イエス様を見ました。幼子を通して、これから始まるであろう神様の救いのドラマを見ることなく、自分たちは世を去ることになります。にもかかわらず、二人は幼子イエス様の中に見たものがありました。それは、イエス様がこれから自分たちの死を滅ぼして、その死の先にまったく新しい世界を備えられるということに他なりません。今までは死というものは、神様との関係を断ち切られる永遠の滅びであり、絶望の極みでしかなかった。けれども、これから十字架と復活の出来事を通して、イエス様が私たちの罪を贖ってくださる、そうして神様との和解を成し遂げてくださる。そして、神様のもとで永遠の命に憩う世界を死の先に備えてくださる。幼子イエス様の中にこの救いを覗き見て、希望と平安に満たされたシメオンとアンナ。そこには、人生の終わりがすぐそこに近づいているにもかかわらず、なお新しい世界へ心を向けた者の姿がありました。
  こうして、シメオンは幼子の死を予見しながら、その死が全世界の人々に救いをもたらすことを、「ヌンク・ディミティス」(Nunc Dimittis)と言われる有名な祈りの賛歌に歌い上げました。それによって人の死の彼方に救い主の死があり、それこそが救いであると全世界に人々に知らせる役目を果たしました。救い主が死の死であることを告げ知らせたのです。また、アンナはいつもの変わらぬ生活を淡々とこなしながら、人々に幼子のことを告げ知らせました。彼女にとって、幼子との出会いはこれまでの日常を死に至るまで変わらずに継続する力を与えてくれたのです。彼女にとってもはや死は新しい世界への旅立ちであり、すべての終わりでも凋落の極みでもありませんでした。幼子との出会いがそうさせたのです。この人たちは、死という大きな人間のテーマがイエス様との出会いによってまったく新しい意味を持つことを私たちに教えてくれています。
  翻って、私たちはイエス様と出会い、死の向こう側にある永遠の命を見ているでしょうか。ここで死というものについて振り返ってみれば、それは誰にでも訪れるものであり、私たちは晩年、必ず「自分は死んだらどうなるのか」という問いの前に立たされることになります。その時に、死をすべての終わりと見なすのか、その先に新しい世界、完成された神の国が広がっていると見なすのかはまことに大きな違いです。
  シメオンとアンナのように、神様のもと、美しく老いていきましょう。そして、死を前にしても、その向こう側に永遠の命の世界を仰ぎ見て動じない信仰を身に着けたいと願います。そうして、神様に人生の幕を引かれたなら、既に行きし信仰の先達たちと共に神様のもとで永遠に安らかに憩い、完璧な礼拝をお捧げする恵みに与りたいと願います。教会創立記念日の今日、私たちの死を滅ぼし給うたイエス・キリストの恵みを讃えながら、皆で一緒に過ごして参りましょう。

 
 
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