受難節 第6主日(2018年2月4日)礼拝説教要旨
 

「救われる側の視点に立つ」
(マルコによる福音書 1章40〜45節)

北村 智史

 標記の聖書個所(マルコによる福音書1:40〜45)を読みますと、私は、イエス様が「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されたのが気になります。イエス様はなぜこのように注意されたのでしょうか。43節、44節前半の聖書の言葉は、非常に強い表現です。「絶対誰にも口外するなよ」と脅しつけて追っ払ったという印象さえ受けます。奇跡を言い広められて大騒ぎになって、いわゆる御利益を求める人々が押し寄せて、イエス様が真に求める神様への信仰が伝えられなくなってしまうからでしょうか。しかし、この個所の強い表現には、それ以上のニュアンスがあるように私には感じられます。
  イエス様は、この人を守ろうとしたのではなかったでしょうか。騒ぎの渦中で持ち上げられ、次にイエス様に反対する人々によって落とされ、再び追い払われて、というふうに、社会に翻弄されて苦しむことのないように、一人の尊厳ある人間として社会に戻って健やかに生きていけるようにと、それを最優先したのではなかったでしょうか。
  イエス様にとって伝道とは、出会った一人の人間を救い、愛し、守り続けることに他なりません。99匹を置いて1匹を捜しに行く羊飼いに、1匹の救出を宣伝に使って大勢を集めるなどという戦略はおよそ無縁であると言えるでしょう。むしろ、1匹の救いを完全に成し遂げるために、自分との関わりを隠そうとさえするのです。イエス様は人を大勢集めることより、一人の人に救いが貫徹すること、一人の人に神の国が成ることを求められた。この事実は、私たちが伝道というものを考える時に忘れてはならない事柄だと私は思います。教会の伝道も、人を大勢集めることばかりに囚われて肝心の一人を蔑ろにしてしまっていたら、イエス様の御心から離れていってしまうのです。教会の伝道は、一人ひとりを大切にするところから始まっていく。それは、祈り願う一人に「よろしい」と手を置いてくださるイエス様のタッチを運んでいく業に他ならない。このことをいつも忘れることの無いようにしたいと願います。
  また、標記の聖書個所の中で、イエス様が最後の最後まで救われる者の側の視点に立って自らの救いの業を為されたことも、私たちは忘れてしまってはな
りません。救う側の視点だけに立つならば、癒された人がその奇跡を言い広めてくれた方が、皆自分の下に救いを求めてやって来るようになって好都合だったかもしれない。けれども、イエス様は、最後の最後まで癒された者の立場に立って考えて、この人の救いが完全に成るようにあえてこの人に口止めをされた。こうした視点は、私たちが身に着けなければならない大切なものだと私は思います。なぜなら、相手の立場に立って考えず、自分の気持ちだけで行動してしまう救いの業は、時には暴力にもなりうるからです。
  実際、このようにしてなされたキリスト教の救ハンセン病事業は暴力そのものでした。ここでキリスト教の救ハンセン病事業について詳しく説明いたしますと、キリスト教は他に先駆けて救ハンセン病事業に乗り出しましたが、その多くは患者のため、ひいては人類全体の幸福のためと言いながら、患者の強制隔離、断種政策に加担するものであったのです。当時、少数派ながらも、「ハンセン病は遺伝病ではないので断種は必要ではない」といった意見、また「隔離しなければならないような強烈な伝染病ではなく、不治の病でもない、治療を加えることによって治癒する疾患である」といった意見があったにもかかわらず、キリスト教の救ハンセン病事業家たちはこれに耳を傾けることなく、結果、「祖国浄化、民族浄化」を掲げる国と一緒になって患者の人権蹂躙に加担しました。多磨全生園というハンセン病療養所内にある教会で牧会をされ、キリスト教とハンセン病の関わりについて研究された荒井英子さんは、その著書の中で、この原因について、「キリスト教とハンセン病の関わりは、救済する側の視点だけで一方的に為されていて、救済される側の視点が欠けていた」と語っておられます。そして、「その態度は今も変わらない。こうしたことが原因で、キリスト教は今も、ヒューマニズムの美名のもと、患者と弱者に苛烈な人権抑圧を行った過去の歴史を自覚することができないのだ」と語っておられます。私たちは今こそ過去の歴史をしっかりと受け止め、二度と同じ過ちを繰り返さないように、荒井英子さんの指摘に真摯に耳を傾けなければなりません。そうして、相手の立場に立って考えず、自分の気持ちだけで行動してしまう救いの業が、どれほどの悲劇をもたらし得るかということをしっかりと自覚しなければなりません。
  思うに、私たちは本当に不完全な存在で、善意で悪を行ってしまうということが多々あります。私の母教会の牧師はこうした状態を、「悪魔」を文字って、「善魔が取り憑く」と表現していました。こうした状態は、罪の自覚がないだけに、本当に厄介です。救いの業を行う時は、必ず救われる側の視点に立つということを、私たち、忘れないようにしましょう。独りよがりの善、独りよがりの正義を振りかざすのではなく、本当に神様の目に善とされること、正義とされることを皆で一緒に行っていきたいと願います。

 
 
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