受難日夕礼拝(2018年3月30日・19:00)礼拝説教要旨
 

「イエス様の愛を受けて」
(ルカによる福音書 23章44〜49節)

北村 智史

 ルカによる福音書23:47〜49には、十字架の出来事を目撃していた三種類の人々が出てきます。百人隊長と「見物に集まっていた群衆」、および「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たち」、すなわちイエス様の弟子たちです。
  百人隊長はイエス様の十字架の出来事を見て、神様を賛美しました。群衆は、胸を打ちながら帰って行きました。しかし、弟子たちは「遠くに立って」、そして「見ていた」としか記されていません。彼らは見て、どうしたのでしょうか。
  「あなたもそこにいたのか」という讃美歌が聞こえてくるようです。受難日の今日、私たちはただ単にイエス様の十字架の出来事を過去の出来事として想い起こすのではありません。自らを十字架の場面に置くのです。私も今、十字架の場面にいる。私は見て、どうするのか。そのことが今、私たち一人ひとりに問われています。受難日の今日、私たちはイエス様の十字架を前に、これほどの犠牲、これほどの愛に応えていくその決意を新たにしなければなりません。
  ここで私たちが生きているこの世界を振り返ってみれば、そこには様々な罪が至る所に溢れています。イエス様を十字架につけた私たちの罪が、今も世界中で様々な悲劇を生み出しているのです。また、飢えや貧困など、様々な悲惨な現実が私たちが生きているこの世界の至る所に横たわっています。こうした中にあって、私たち、イエス様が他人のために御自分を犠牲にされたように、自分もまた他人のために自己犠牲に生きるその犠牲愛で、この世界を変えていかなければならないのではないでしょうか。
  このことに関連しまして、最近私はテレビである方が取り上げられているのを見ました。それは、近藤亨という方です。この方は長く新潟大学の農学部の助教授として農業を研究されてこられましたが、定年間近となった55歳の時に国際協力事業団JICAの一員となりネパールに渡られ、そこで15年間農業指導に携わられました。69歳となり、そろそろ日本に帰ろうと思っていた時に、この近藤さんは人生最大の転機に遭遇します。それはJICA時代最後の長期休暇を取った際、15年間のネパールでの活動の中でずっと気になりながらも一度も行ったことがなかったヒマラヤ奥地の秘境ムスタンを訪問したことでした。そこで彼は、大勢の人々が飢えに苦しみ亡くなっていくムスタンの人々の現実に愕然とさせられたのです。
  彼らがここまで厳しい境遇に置かれていたのは、このムスタンが標高2700メートルの高地にあり、年間降水量もわずか150ミリほどしかなく、草木さえ育ちづらい不毛地帯だったからに他なりません。
  このムスタンの現実を見た近藤さんは一念発起されました。JICAの任期を終えて日本に帰るや否や家族を説得して、持っていた家や田畑などの私財をすべて売り払い、それで作り出した全財産を持ち、今度はJICAの一員ではなく一個人として70歳でヒマラヤ奥地のムスタンに単身移住されたのです。単身移住した近藤さんは、まず水の確保のために、5000メートル離れたヒマラヤ山脈の雪解け水を、パイプを繋いで引っ張ってくる作業を始めました。しかし、諦めきった村人たちは、初め誰もこの作業に協力してくれませんでした。来る日も来る日も、また高山病に苦しめられながらも、老体に鞭を打ち、富士山よりも高い高地にたった一人で登り、作業を続ける近藤さん。それはまさに命懸けの作業でした。この執念にも似た近藤さんの姿に、村人たちはいつしか心を打たれ、一人、また一人と作業に協力してくれるようになりました。終いには80人の村人たちが集まり、一年後、ムスタンの村にヒマラヤの雪解け水が溢れるようになったのです。そして、近藤さんはそれからも悪戦苦闘を続け、なんと4年後に、標高2700メートルのムスタンの地で世界最高高度の稲作に成功し、全世界を驚かせました。さらに、近藤さんはリンゴ、トマト、ネギといった野菜や果物の栽培も成功させ、今ではムスタンで収穫された野菜や果物は近くの都市の市場で販売までされるようになり、ムスタンの人々は現金収入を得られるようになりました。そして、いつしか自分の私財すべてを使い切ってしまった後も、近藤さんは日本で講演会を開き、寄付金を募り、ムスタンに病院や学校などを建て続けたのです。このように90歳を超えても精力的に働き続け、ムスタンの人々の幸せのために尽力して来られた近藤さんでしたが、一昨年の2016年6月9日、94歳でこの世を去られました。
  「自分の幸せだけに夢中にならないで、貧しい恵まれない人たちを少しでも幸せにするのが務めだと僕は真剣に考えています」。生前このように語っていた近藤さん。近藤さんのこうした生き方、働きは、他人のために自己犠牲に生きるその愛、生き方こそが、多くの人々を巻き込んで実際に世界の悲惨な現実を変えていくのだということを私たち一人ひとりに証ししてくれているように思います。川の小さな一滴の雫がやがて集まって大きな海を形作っていくように、私たちの犠牲愛も寄り集まって大きなうねりとなってこの世界を変えていくのです。多くの人々がエゴに生き、自分の幸せだけに夢中になっている今のこの世界にあって、受難日の今日、私たち教会は改めてイエス様の十字架の愛を受けて、私たちは実際にどうしていくのか、どのように生きていくのかを一人ひとりに問うていきたいと願います。そうして、イエス・キリストにならい、他人のために自己犠牲に生きる犠牲愛の生き方を広く呼び掛けていきたいと願います。皆で力を合わせて、この世界の罪の現実、悲惨な現実を乗り越えていきましょう。そうして、神様、イエス様を喜ばせていきたいと願います。

 
 
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