聖霊降臨節第9主日(2018年7月15日)礼拝説教要旨

 
 

「聖書の怖さ」
(サムエル記上17章38
〜54節)
北村 智史

 皆さんは、初めて聖書を読んだ時、どのような印象を持ったでしょうか。私はと言えば、旧約聖書の創世記一つを取ってみても、創造物語があったり、ノアの洪水の物語があったり、アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語があったりと、面白いお話がいっぱい出てきますし、また、聖書には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」といった、人生の教訓にしたい言葉もたくさん出てきますので、その意味でとても興味を引かれる読み物だなというプラスの印象を持ったのですが、それだけではなくて、それと同時にマイナスの印象も持ったのをよく覚えています。聖書を読んでいますと、この個所をはたしてどのように受け止めたらよいのか分からないで悩む、そんな箇所もいくつも出てくるのです。
  たとえば、コリントの信徒への手紙一14:34には、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」といったような、女性蔑視に溢れた言葉が出てきますし、その他にも、たとえばエステル記には、ユダヤ人たちが自分たちの敵に復讐して、彼らを何万人も虐殺したなどという記事が出てきます。
  私が初めてこうした記述を読んだ時、こうしたことも神様の御心とされるのだろうかと恐怖のようなものを感じたのをよく覚えています。きっと皆さんも、聖書を読んで同じように感じた経験をお持ちではないでしょうか。このように、聖書にはすんなりと受け入れることのできる御言葉だけではなくて、ぎょっとすると言いますか、どのように受け止めたらいいのか分からないような御言葉もたくさん出てくるのです。このために躓く人も少なくありませんし、中には、こうした御言葉、たとえば女性蔑視に溢れた御言葉などを、「聖書の御言葉だから」ということで単純にそのまま神様の真理と見なして受け止めて、偏った思想に陥ってしまう人もいるようです。この辺りが聖書の怖さだと思うのですが、そうしたことにならないように、聖書を偏りなく読むためには、訓練が必要になってくるのではないでしょうか。教会の指導や訓練によって、聖書を歴史的、また批判的に読む視点も身に着けなければ、私たちは聖書全体をバランスの取れた仕方で理解することはできないように思われます。本日はその訓練のためにも、具体的に聖書の一つの箇所を取り上げながら、これを批判的に解釈しつつ、そこに浮かび上がってくるメッセージを皆さんと一緒に見ていきたいと願っています。
  さて、本日は聖書の中からサムエル記上17:38〜54を取り上げさせていただきました。ダビデとゴリアトの一騎打ちの場面です。このダビデとゴリアトの戦いのエピソードは、ダビデを巡る多くの物語の中でも最も有名で人気のあるエピソードではないでしょうか。
  ある時、イスラエルの人々とペリシテ人との間に戦争が起こります。イスラエル軍とペリシテ軍は、「エラの谷」という谷を挟んで睨み合いとなりました。すると、ペリシテ軍の陣地からゴリアトという名前の戦士が進み出て、イスラエル軍に挑戦し、一騎打ちを呼びかけました。このゴリアト、ただの戦士ではありません。聖書を読みますと、身長がおよそ3メートル、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅でできたおよそ60kgもあるうろことじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着けて、肩に青銅の投げ槍を背負っていたと記されています。その槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、その穂先はおよそ7kgの鉄でできていたと言います。こんな巨人、怪力の持ち主が、とんでもなくいかつい装備で、盾持ちを従えて、イスラエル軍に一騎打ちを挑んできたのです。イスラエルの人々はすっかり恐れおののいてしまって、この挑戦に応じようという勇気のある者は一人もいませんでした。
  そんな時、まだ少年だったダビデが戦場にやって来ます。そして、ゴリアトの一騎打ちを呼びかける言葉を聞き、「生ける神の戦列に挑戦するとは何事か」と怒りに燃え、「自分が行って、あの男と戦ってきましょう」とイスラエルの王様サウルに申し出るのでした。
  この時、ダビデは何を頼りにしていたでしょうか。それは、神様の御加護に他なりません。当然、一騎打ちを止めようとするサウルに、ダビデは答えます。「自分は羊飼いとして、ライオンや熊などの野獣を退治してきた。それは自分に勇気と力があっただけでなく、何よりもまず神様の御加護があったからだ。神様は今回も私を守り、あの冒涜者ゴリアトをやっつけさせてくださることだろう」。
  ダビデのこの言葉を聞いて、サウルはゴリアトとの一騎打ちを許可しました。そして、ダビデは、杖を手に取り、石投げ紐と石5つを持って、そんな丸腰同然の姿でゴリアトとの戦いに向かって行ったのです。小さな少年が丸腰同然の姿で、完全武装した、いかつい怪力の巨人に戦いを挑む。誰もが無謀な挑戦と思ったことでしょう。しかし、ダビデは石投げ紐を頭上でぐるぐる振り回し、遠心力で石を飛ばして見事にゴリアトの額に命中させ、彼を打ち倒してしまいました。そして、ゴリアトの剣を取り、それを鞘から引き抜いてとどめを刺し、その首を切り落としてしまうのです。
  これが本日の聖書個所です。このお話を読んで、皆さんはどのように思われたでしょうか。私はと言いますと、このお話を通じて、ダビデが人生の難敵に出くわした際の対処の仕方を教えてくれているような気がしました。ダビデがゴリアトに出くわしたように、私たちも人生の中で試練という大きな難敵に出くわすことがあります。それは、とても手強く強大で、それを乗り越えるために、自分は何の武器も持っていないのではないかと思えるような時すら私たちにはあります。
  例えば、自分のことを申し上げて恐縮なのですが、私は強迫神経症という病気を患っていまして、一度始めた行動を自分ではなかなか止めることができないという症状を抱えています。子どもの頃はそのために、何時間も手を洗い続けたり、歯を磨き続けたりしたものでした。精神科に通い、治療をしましたので、こうした強迫行為は、それで悩まされないくらいに回復したのですが、強迫観念の方は未だに治っていなくて、一度何か心に引っかかるものを感じて考え始めたら、それについてずっと考え続けている、なかなか自分で考えを止めることができないという症状を未だに抱え続けています。そうなると、一番困るのは、本を読む時なのです。文章を読むたびに色々なことが心に引っかかって、その度にその文章を何度も何度も読み直して延々と考え続ける。そんなことを何度も何度も繰り返すものですから、本を読み進めるのに異様に時間がかかってしまうのです。それはそれだけ思索しながら読んでいるわけですから、いったん読んでしまった本に対する理解というのはそれだけ深いものがあるようですが、なにせ学生とか牧師っていうのは、次から次へとたくさん本を読んでいかないといけない職業ですから、学生の時も、伝道師、牧師になった時もそのハンデに泣かされました。そして、今も泣かされています。読みたい本、読まないといけない本は次から次へとあるのに、ちっとも追いつかない。こうした現状を何とかするために、東京でも病院に通い、専門的な治療を行って、本を読んでいく訓練をしていますが、強迫症という敵の厄介さ、強大さを思い知らされる毎日です。自分が丸腰同然のように心もとなく思えます。
  しかし、ダビデは神様の御加護を信じ、神様の信頼を武器にして、丸腰同然の姿でゴリアトという屈強な敵に立ち向かっていきました。そして、神様は見事にダビデに勝利を賜ったのです。同じように、私も、丸腰同然のように心もとない自分ですけれども、神様が必ずこの病に打ち勝たせてくださると信じて、治療の毎日に励んでいきたいと願っています。
  このように、本日の聖書個所は、人生の難敵を前に、主に信頼し、これに立ち向かっていくという信仰者のあり方を、そしてまた、そのように主に信頼する時、神様は必ず勝利を与えてくださるという信仰者の希望を、私たちに教えてくれています。その意味で、本日の聖書個所はとても有意義なものであるということができるでしょう。
  しかし、この聖書個所を読んだ時、私は同時に怖いものも感じました。自分たちにこそ真の神様がついていると言って、ペリシテ人を殺していく、そして略奪する。こうした残酷な記述を、どのように受け止めたらいいのか、やはり戸惑いを感じたのです。ともすれば躓きとなってしまうこうした記述を、はたして私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。ここでこそ、私は聖書を歴史的、批判的に読むべきだと思います。
  旧約聖書時代初期の神様は部族の神様で、その倫理も部族的でした。この時代、「あなたは殺してはならない」という十戒の掟は、「あなたは、同胞のイスラエル人を殺してはならない。しかし、神様のためにペリシテ人は殺せ」ということを意味していたのです。本日の聖書個所も、こうした部族主義、民族主義に溢れた倫理のもとで書かれたものであるということを冷静に受け止める必要があります。では、こうした本日の聖書個所を、現代の文脈で読み直せば、どのようになるでしょうか。
  私たちは今や、イエス様がその生涯において、特に十字架の死において、こうした部族主義、民族主義を乗り越えられたことを知っています。イエス様は「善きサマリア人の譬え」の中で、自分が愛する隣人の範囲をユダヤ人に限定しようとする律法の専門家に対し、すべての人の隣人になるよう説かれました。また、ユダヤ人だけでなく、すべての人々の罪の贖いとして十字架にかかって死なれ、復活し、すべての人の救いを成し遂げられました。イエス様にとって、神様はイスラエルの人々だけの神様ではなく、すべての人々の神様です。そして、イエス様の倫理は、ユニバーサリズムに溢れています。そのイエス様に従う私たちの倫理も、当然ユニバーサルなものです。
  この倫理のもとでは、自分たちにこそ真の神様がついているとして、相手を殺す戦争を正当化するような聖戦の思想は赦されません。私たちの歴史を振り返ってみれば、「異教徒を殺すことは神様の御心に適うことだ」と声高に叫ばれた十字軍や、「God bless America!」と言って自国の戦争を正当化したブッシュ大統領など、神様の名のもとにどれだけ非道な行為が繰り広げられてきたことでしょうか。こうした事柄は、イエス様の倫理と決して相容れないものです。「暴力を正当化するために神のみ名を使ってはならない」と何度も繰り返したヨハネ・パウロ2世の言葉を、私たちは胸に刻まなければなりません。
  また、現代の日本では、ヘイト・デモ、ヘイト・スピーチなどが横行していますが、他民族との共生を認めようとしないこうした誤った民族主義も、ユニバーサリズムに溢れたイエス様の倫理とは決して相容れないものでしょう。
  このように、聖書を歴史的、批判的に読む時、私たちはどのように受け止めたらよいのか分からないで戸惑う聖書の箇所からも、聞き取るべき神様の御声を聞くことができます。よく聖書は、時代を超えて人々に導きを与え、人々を生かす生きた神様の御言葉だということが言われますが、それは、このように聖書を歴史的、批判的に読む視点を身に着けてこそのことでしょう。神様の御言葉とは言え、聖書も人間の手によって書かれたものですから、当然その時代の制約を受けているということを、私たち忘れることのないようにしたいと思います。そうして、現代の文脈で聖書を読み直すという作業をしていきたいと思います。
  ともすれば人に躓きを与えてしまう、あるいは偏った思想に陥らせてしまう、そのような怖さを持った聖書ですが、これを歴史的・批判的に読むことによって、真に私たちを生かす神様の御言葉としていきましょう。そうして、聖書と共に信仰生活を豊かに過ごしていきたいと願います。

 
 
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