聖霊降臨節第17主日(2018年9月9日)礼拝 説教要旨

 
 

「開かれた教会をめざして」
(マルコによる福音書11章15
〜19節)
北村 智史

 標記の聖書個所(マルコによる福音書11:15〜19)は、「イエスの宮清め」という言葉で知られている有名な個所です。当時、エルサレム神殿では、神殿への入場制限による差別、商売による異邦人の礼拝への妨害、障がい者に対する排除といったものが蔓延していました。本来は「すべての国の人」、すべての・・・・人々にとって「祈りの家」となるべき神殿にこのような不正義がはびこっているのを見て、イエス様は「神殿の境内」、すなわち「異邦人の庭」で「売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され」たのです。イエス様のこうした行動は、怒りに任せた衝動的なものでは決してなかったと私は思います。
  マルコによる福音書11:17で、イエス様は「あなたたちは神殿を強盗の巣にしてしまった」と人々を非難しましたが、実はこの「強盗の巣」という言葉は、エレミヤ書7:1〜15を背景にした言葉に他なりません。この中で、預言者エレミヤは、神様を礼拝さえしていれば正義を行わなくてもよいとして、神殿で神様の御心に沿わない不正義が行われ続けるならば、神様御自身が裁きを降して神殿を破壊されることをイスラエルの人々に預言していました。イエス様がこの預言を彷彿とさせる言葉をここで語っていることを思えば、私はイエス様が標記の聖書個所で、このように過激な行動を取られたのは、エレミヤの預言が今まさに御自分において成就したことを人々に告げ知らせる、デモンストレーションだったように思うのです。「神様を礼拝しながら、ある特定の人々を排除しているような不正義に溢れたこの神殿を私は退ける。これからはあなたたちは、私において神様と出会うのであり、私のもとで誰一人排除することなく、正義を行いながら神様を礼拝するようになりなさい」。御自分の行動を通して、イエス様はこのようなメッセージを人々に訴えられたのではなかったでしょうか。
  イエス・キリストは、すべての人々を神様の礼拝に招いておられる、そしてその礼拝において正義を求めておられる。標記の聖書個所を通して示されたこの事実は、今を生きる私たちにとってとても大切なことではないでしょうか。
  このことに関連して、先日、セクシュアル・マイノリティー当事者によるエキュメニカルなキリスト教グループ「『キリストの風』集会」から教会にアンケートが届きました。LGBTの方々を初め、セクシャル・マイノリティの方々が、安心して通える教会を探すためのアンケートです。こうしたアンケートが行われるその背景には、セクシャル・マイノリティの方々が教会において傷つけられる、そんなケースが多発していることがあります。実際、「『キリストの風』集会」がアンケートと共に送ってくださった「私たちからのお手紙」には、LGBT当事者のこんな声が記されていました。「通っていた教会でセクシャリティを否定されたことがあるので、『安心できる(セクシャリティを否定される心配のない)教会』を知りたいです。」「恋愛することも我慢して耐えてきたのに『同性愛者』とレッテルを貼られ、好きだった活動から少しずつ締め出されて、次第に教会での居場所を失くしていきました。」「私は性同一性障害をもつ両性愛者です。子どものころキリスト教会が近くにあったこともあり、キリスト教に興味をもちましたが、聖書から男女差別、性的少数者への差別を感じ離れました。」セクシャル・マイノリティの方々にとって、教会が安息の場所とならない痛ましい現実の数々に圧倒されます。
  私はセクシャル・マイノリティの方々への差別について、長年同性愛を罪としてきたキリスト教の責任は非常に大きいと考えています。これだけセクシャル・マイノリティの方々への人権が叫ばれるようになってもなお、「聖書に書いてあるでしょ」ということでキリスト教界では同性愛を罪とする人が後を絶ちません。
  私たちはいい加減、聖書の読み方を考え直さなければならないのではないでしょうか。同性愛を罪とする人々がよくその根拠として挙げる聖書個所も、最新の研究では違った解釈が為されてきていますし、その他にも聖書を根拠にLGBTを良しとする試みもたくさん為されてきています。そもそも、今から数千年も前の時代、まだセクシャル・マイノリティに対する理解もなく、そうした方々の人権などまるで考えられなかった時代の文化の中で書かれた言葉を、そのまま今の時代にも通じる真理として捉えるような聖書の読み方自体がナンセンスなのではないでしょうか。聖書の中には、確かに変わらない真理と言いますか、時代を超えて輝く真理が含まれていると私は思います。しかし、時代とともに変わってくる真理と言ったらいいのでしょうか、かつてはこれが真理だと考えられていたけれども、現代においては違った風に考えるのが必要な御言葉も含まれていると私は思います。その意味で、その御言葉が書かれた時代と今の時代とを突き合わせて聖書を批判的に読むということが、開かれた教会を建てていく上で重要になってくるのではないでしょうか。
  また、聖書の読み方以外にも、教会をすべての人の祈りの家とするために、教会には変革していかないといけない事柄がたくさんあると思います。イエス・キリストは、すべての人々を神様の礼拝に招いておられる、そしてその礼拝において正義を求めておられる。願わくは私たち、力を合わせてすべての人に開かれた教会を形作っていくことができますように。そして、私たちの礼拝の中から排除という不正義を取り除いていくことができますように。皆で一緒に、東京府中教会をイエス・キリストの御旨に適ったものとしていきましょう。そのただ中で、神様はいつも私たちと共にいてくださいます。

 
 
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