聖霊降臨節第23主日(2018年10月21日)礼拝 説教要旨

 
 

「教会を瓦解させるもの」
(ヨハネの黙示録7章2
〜4節、9〜12節)
北村 智史

 標記の聖書個所(ヨハネの黙示録7:2〜4、9〜12)では、苦難の中、信仰を貫き通した者がやがて訪れる終末において与ることのできる至福の礼拝の様子が詳しく描かれており、ヨハネがこの希望によって人々を力強く励まそうとしたことがよく分かります。厳しい迫害の中を耐え抜いた神の民一人ひとりに救いの刻印が押される。そうして、イエス・キリストの十字架の血によってその罪を聖められた、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が」、神様とイエス・キリストを直接仰ぎ見ながら礼拝を捧げる。そして、彼らは昼も夜も神様に仕え、神様と共にいて、あらゆる苦痛、不安、苦難、悲しみから解き放たれる。イエス・キリストは「彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き」、その魂の渇きをことごとく癒され、神様は「彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」。ヨハネが人々に語ったこうした希望は、ローマ帝国の迫害に苦しむアジア州の諸教会の人々を実際に生かしました。そして、彼らは厳しい迫害の時代を耐え抜いたのです。
  こうしたヨハネの黙示録を読んで、私は、教会は外部からの力に対して非常に強い性質を持っているということを教えられました。ここで教会の歴史を振り返ってみれば、そこにはローマ帝国の迫害を初め、様々な迫害、困難がありましたが、こうした苦難に出くわすたびに、教会は終末の希望を、今を生きる力に変えて乗り越えてきたのです。神の民のその力強さに、驚かされます。今の時代の教会も、私はその力強さを受け継いでいると信じています。けれども、その一方で、私は、それだけの力を(たた)えた教会があっけもなく崩れ去ってしまったというお話を何度も耳にしてきました。
  例えば、私が前任地の教会にいた頃、近くの教会のこんな話を耳にしたことがあります。隠退したはずの名誉牧師が事あるごとに今の牧会に口を挟んで、さらには自分の言うことを聞かない今の主任牧師を追い出しにかかったのです。そのために教会が名誉牧師派と今の主任牧師派に分かれて、泥沼の争いを繰り広げるようになってしまいました。そして、こうした教会内の抗争に信徒が疲れ果てて、一人、また一人と去っていき、結果、教会が壊滅状態に陥ってしまったのです。
 その教会は、決して歴史の浅い教会ではありません。半世紀以上にもわたって、様々な苦難を耐え忍んできた教会です。それが、わずかの間でこうもあっさりと簡単に崩れ去ってしまう。その有り様を見ていて、本当に胸が痛みました。そして、こうした事実を前に、私は教会を瓦解させるものは、決して迫害とか弾圧とか、そうした外からの力ではない、人間のエゴなんだということをつくづくと実感させられたのです。
 このことに関連して、礼拝学者の越川弘英先生は、ある著書の中でこんなことを語っておられます。「キリスト教の歴史を見ていくと、……教会が本当にだめになってしまったのは、外部の圧力というよりも、むしろ内部からの問題によるものであった場合が多かったように思います。すなわち、教会が単なる制度や習慣に堕し、その生命線ともいうべき礼拝がいいかげんになり、聖職者も信徒も祈りや讃美を怠り、聖書の言葉をまじめに受けとめようとせず、馴れあいの人間関係が教会の中にはびこり、結局のところ、すべてが曖昧にされ、惰性に流されてしまうようになったとき、教会は内から崩れるという経験を何度も繰り返してきました。教会はつねにこうした内側からの問題ということを見つめ続ける必要があります。」
 名誉牧師がエゴの赴くまま、主任牧師を追い出しにかかる教会、信徒が名誉牧師派と主任牧師派に分かれて、互いに相傷つけ合う教会、そうした教会では、礼拝はどのようなものになっていたでしょうか。彼らがいい加減な気持ちで礼拝に集っていたとは言いません。きっと皆さん、熱心に神様を求めて礼拝に集っておられたことでしょう。けれども、その礼拝が、神様の御前に己の姿を映し出し、その罪を、エゴを悔い改めさせるものとなっていなかった、そこで語られる聖書の御言葉も、己の罪を深く自覚させるほど、己に関わるものとして捉えられていなかったというのは、事実ではないでしょうか。
 私は以前、礼拝の説教の中で、礼拝とは本来危険なものだということを申し上げたことがあります。礼拝というものは、それが真実なものであればあるほど、自分を安全地帯に置くことができなくなると言いますか、神様の御前に自分の罪を思い知らされる、そうして罪を持った古い自分に死に、神様のもとで新しい人として蘇るような経験を引き起こす、そんな代物だと私は思うのです。
ある教会が「よい教会」であるかどうかをはかる指標は、決して会員数や財政規模や建物の大きさにあるわけではありません。それは、そこで礼拝がどれだけ真剣に、真実なものとして守られているか、そしてそれによってどれだけ「キリストの体」がきちんと形作られているかどうかではないでしょうか。
 この礼拝の一時、教会を瓦解させるものは人間のエゴであることを改めてしっかりと弁えましょう。押さえておかなければならないことですが、教会は決して聖人君子の集まりではありません。罪を持った人間の集まりです。ですから、ともすれば教会の中に人間のエゴが横行するということが起こり得るのです。そうならないためにも、私たちは毎主日、神様に出会い、罪を持った古い自分に死に、新しい命に蘇る悔い改め豊かな真実な礼拝を捧げ続けていかなければなりません。願わくは、今この一時も神様が共にいまして、私たちのエゴを打ち砕いてくださいますように。主日の礼拝を通して、神様の御心に適う「キリストの体」を皆で一緒に形作っていきたいと願います。

 
 
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