降誕節 第8主日(2019年2月17日)礼拝説教要旨
 

「関係者でいこう」
(マルコによる福音書 2章1〜12節)

北村 智史

 標記の聖書個所(マルコによる福音書2:1〜12)は、中風、すなわち、何らかの病気のために体に麻痺を抱えてしまった人を4人の人がイエス様のもとに連れてきた、そして、その熱心な信仰を見て、イエス様がこの中風の人を癒されたという奇跡物語です。人様の家の屋根をはがし、ベッドを吊り降ろしてまでイエス様に癒しを願い求めたこの4人の行動は、かなり大胆かつ積極的なものだったと言うことができるでしょう。「イエス様ならば必ずこの人を癒すことがおできになる。なんとしても、この人をイエス様の前に連れていく」。彼らの熱心な信仰、熱心な執り成しを見たイエス様は、これに応えて「子よ、あなたの罪は赦される」と、まず罪の赦しを宣言されました。
  これには、少し説明がいります。当時、病気は罪の結果起こるものと考えられていましたから、中風の人は「この人は何か罪を犯してこのようになったのだ」という偏見に苛まれて差別されていましたし、自分でもそのように考えて自責の念に苦しめられていたのです。けれども、イエス様はこのように罪の赦しを宣言することによって、中風の人をこうした差別や偏見、自責の念から解き放たれました。そして、その上で、体の麻痺そのものを癒されたのです。
  4人の熱心な信仰、熱心な執り成しに対して、イエス様は、中風の人を麻痺という肉体的な痛みからだけでなく、差別や偏見、自責の念といった社会的な痛み、精神的な痛みからも解き放って、全人的な癒しをお与えになった。これが、標記の聖書個所のお話に他なりません。
  このお話を読むにつけ、私は自分もこの4人のようになりたいと強く思わされます。「あんな人に関わってはいけない」。誰もがこのように考えて、中風の人との関わりを避けていた中で、この4人はそのような偏見に流されない強い信仰を持っていました。「神様に従う者として、自分は苦しむ者を置き去りにしない。苦しむ者に関わり続けていく」。そのような信仰を、彼らは持っていたのです。
  翻って、私たちはこのような信仰を持っているでしょうか。色々な偏見が巷にあふれる中で、なお自分が取るべき行動を正しく選択していくことのできる強い信仰を。また、苦しむ者を決して置き去りにしないで、これに寄り添い続けていく強い信仰を。
  このことを思う時、私はある出来事を思い出します。ある時、京王線の特急で新宿から調布まで乗っていたのですが、ある女性が、非常に体調が悪そうだったのです。意識も朦朧としているようで、まともに立っていることもできない様子で、何度も倒れそうになるのを隣の男性が一生懸命汗だくで肩を貸して支えていました。「大丈夫か」と思いましたが、混んでいる車内の中で身動きが取れず、距離も微妙に離れていたために、これは本当に恥ずかしい話なのですが、なかなか声をかける勇気も出せなくて、ただただ心配しながら様子を見守っていました。
  信じられないのは、その女性が、意識が遠のいて何度も何度も前に座っている男性に倒れ込みそうになるにもかかわらず、その男性も、また近くに座っている人も、誰一人声をかけないし、席も代わってあげなかったことでした。「前の男性、寝てるのかな。誰か近くの人、声をかけてあげてよ」と思いながら、一人、ハラハラしていたのですが、結局調布まで誰も助けてくれる人は現れず、調布で人が降りて車内が空いた段になってようやく少し遠くに座っていたある男性がそのカップルに声をかけて、席を代わってくれたのでした。
「大丈夫かな」と思いながらも、乗り換えの駅に着いたので私はそこで電車を降りたのですが、降りる時に、女性の前に座っていた男性を見たら、彼は寝ていたのではありませんでした。起きていたのです。起きてこの女性の大変な様子をずっと目の当たりにしていたのに、平然と座っていたのです。少し腹が立ちました。そして、調布駅で乗り込んだ人々が、席を代わってもらってしんどそうに座っているこの女性の様子を見ると、「関わりたくない」と思ったのでしょう、嫌な顔をしながら他の場所に移っていく様子を見て、とても悲しくなりました。と同時に、しかし「自分もこれらの人々を責める資格がないな」と思わされたのです。車内が混んでいても、距離が離れていても、「大丈夫ですか」とか、「前の人、席を代わってあげてください」とか、大声で声をかけることはできただろう。その勇気が持てなかった自分を、恥ずかしく思いました。
  そして、一口に無関心と言っても、色々なタイプがあるのだなあと痛感させられました。苦しむ者を目の前にしても、何も思わないし、関わっていこうとしない、そんな無関心。苦しむ者を目の当たりにして、「面倒なことに巻き込まれたくない」と嫌な顔をして距離を取る、そんな無関心。苦しむ者を前にして、「何とかしなきゃ」と思う。けれども、勇気が出ずに結局は行動に結び付かない、そんな無関心。いずれも、苦しむ者をさらに孤独に追いやる行動には違いありません。私たちが一人ひとりこうした無関心から抜け出さない限り、そうして、苦しむ者に寄り添っていかない限り、神様の御心が実現する神の国はいつまで経ってもこの地上にやっては来ないだろう。そんな風に思わされました。
  神の国をこの地に成していくために、私たち一人ひとり、自らの心の中にある無関心としっかり向き合いたいと願います。標記の聖書個所に出てきた4人のように、苦しむ者を決して置き去りにしないで、これに寄り添い続けていく、そのような信仰を、皆で一緒に身に着けていきましょう。

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.