受難節 第1主日(2019年3月10日)礼拝説教要旨
 

「レントの季節に悔い改めを思う」
(ルカによる福音書 18章1〜14節)

北村 智史

 標記の聖書個所(ルカによる福音書18:1〜14)には、イエス様が語られた二つの譬えが記されています。「『やもめと裁判官』のたとえ」と「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」です。この二つの譬えに共通していることは、困窮する者やへりくだる者が高められているということでしょう。当時、やもめは社会的保護が必要なよるべない身の上の人であり、徴税人は神様の前に何一つ誇るものを持たない罪人とされていました。しかし、そういう人々の祈りを受け入れる神様の深い憐れみがここで示されているのです。
  また、イエス様によれば、神の国の福音というのは、自信に満ちた義人よりも、むしろ立ち直りたいと思って必死に道を求めている罪人にこそ必要なものです。イエス様は、マルコによる福音書2:17の中で、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という有名な言葉を語られました。それと同じことが、「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」でも言われています。
  ではなぜ、イエス様は徴税人や罪人など、当時軽蔑されていた人々の近くに行かれたのでしょうか。それは彼らこそ本当に福音を必要としているからであり、神様もまたそういう失われた者の救いを喜ばれる神様だからに他なりません。神様は立ち直りたいと切に願う者、へりくだって悔い改める罪人に対して、憐れみ豊かであられます。それゆえに、罪人を探し求めて、このように行動して憚らないのです。
  ルカによる福音書の著者は、この「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」をファリサイ派の人とは限定せず、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」すべての人々に語っています。神様は心砕けた者の神様であり、罪人に対して慈しみ深く、憐れみ豊かな神様であられ給う。標記の聖書個所は、この原点に立つ者であれと、キリスト者である私たちにも語りかけているように感じられました。
  では、ここで我が身を振り返ってみて、私たちは本当に神様の御前に心砕けた者となっているでしょうか。3月6日の灰の水曜日からレントに入りました。この季節、私たちは自分の罪を見つめつつ、悔い改めの内にイースターを迎える心の準備をしていきます。けれども、私たち人間は皆、自己本位であり、神様の御前で悔い改めることを嫌います。自分を見つめ直すことよりも自分を主張することに力を尽くし、神様に罪を告白する祈りよりも神様に何かを要求する祈りを繰り返しているのが私たち人間の実態と言えるでしょう。そんな私たちは、なかなか自分の罪を認めようとはしません。この間の3月1日も、私はこうしたなかなか自分の罪を認めようとはしない人間の本性について、深く考えさせられました。
  2019年3月1日、それは1919年の3.1独立運動から100周年となる記念の日でした。日本キリスト教協議会(NCC)では、2.8独立宣言(3.1独立運動の契機となった宣言)の発表と3.1独立運動から100年を迎えるにあたり、1月18日付で声明を出しています。そこでは、2.8独立宣言と3.1独立運動について、それらは「今も私たちに問い掛けられる歴史責任であり、和解と平和の課題」であるとされています。「私たちキリスト者はこの2.8独立宣言と3.1独立運動との日本の関わりの歴史を大切な教訓として、現代の課題と向き合わなければなりません」。「大日本帝国による侵略戦争と植民地支配の責任についての信仰告白にあらためて立ち帰り、南北の平和統一のために奮闘する朝鮮半島のキリスト者と共に、南北朝鮮と日本の真実の和解と共生の平和を目指し、また日本の平和憲法に基づく民主主義を守り、排外主義的なナショナリズムに抗(あらが)い、共生の平和を求める宣教の使命を担う道を、平和の主に導かれるように切に祈らずにはおれません」。声明では、このように語られています。
  3月1日、それは私にとって朝鮮半島のことを思う日であり、私たち日本の過去の過ちをしっかり見つめて、平和を創り出していく決意をする日に他なりません。けれども、この日に3.1独立運動100周年関連のニュースを見れば、日本の過去の過ちを問うようなニュースはほとんどなく、それどころか「両国関係が悪化している中、3.1独立運動100周年を迎えて韓国内で反日ムードがさらに激しくなっている」といった世論が巻き起こっていました。こんなふうに、メディアでは、まるでその日が反日キャンペーンの一日のように報じられていて、腹が立つのを通り越してがっかりさせられた次第です。
  こうしたことを鑑みるに、私たちは、本当に過去の過ちを反省しているのでしょうか。少なくとも今のような日本政府の姿勢からは、歴史に対する反省が何も伝わってきません。むしろ歴史を捻じ曲げようとしているようにすら感じられます。そのように自分たちの罪をなかなか認めようとしない人間のエゴが吹き荒れる中にあって、私はこのレントの期間、まことの悔い改めをこの社会に広く呼びかけたいと願うのです。自分たちもかつては戦争協力という罪を犯した、そのような教会に連なる一人のキリスト者として、償いの気持ちをきちんと持ち、神様の御前にもう二度と同じ過ちを繰り返さないようにする、そして、アジアの隣人と和解して本当に平和な世界を作っていくという強い意志を持つことを訴えていきたいと願います。
  願わくは、私たち、3月1日を、韓国の反日の日として警戒するのではなくて、朝鮮半島の平和と日本の平和を願い、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと誓う、そのような平和の誓いの日としていくことができますように。過去の歴史をしっかりと見つめ、まことの悔い改めでもって、このアジアに平和を成し遂げていきたいと願います。

 
 
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