復活節 第7主日(2019年6月2日)礼拝説教要旨
 

「コーティングの力に抗って」
(マタイによる福音書 9章9〜13節)

北村 智史

 先月、5月17日に信濃町教会で行われた日本基督教団のある講演会で、センセーショナルな写真を見せられました。福島県双葉郡の警戒区域内にある「希望の牧場」という所で飼育されている牛の写真です。それを見ると、被ばくのために顔や体にいっぱい斑点ができているのが分かります。この斑点が現れると数日で牛は死んでしまうそうです。福島の放射能汚染の現実を突き付けられた本当に衝撃的な写真でした。こうした写真を見ながら、私たち、東京で暮らしている人間は福島のこうした現実がどれほど見えているか、反省させられた次第です。今、福島の子どもたちの間では甲状腺がんの数が異常に増えていると言いますが、こうした現実も、やれそれはスクリーニング効果だなんだと理屈をつけて、何でもないことにされてしまっている、結果、東京に暮らしている私たちの現実では、福島のこうした現実はなかったことにされてしまっているのではないか、そうしたことを思わされました。
  同じように考えさせられたことは、先月の23日にもありまして、この日、私は狭山事件の市民集会に参加するために日比谷公園の野外音楽堂を訪れました。部落差別に基づく冤罪事件である狭山事件、これにより石川一雄さんは不当逮捕から56年が経った今も大きな抑圧のもとに置かれています。再審を勝ち取り、石川一雄さんの無実、無罪を勝ち取るために開かれたこの市民集会では、全国の解放同盟の方々だけでなく、同宗連、日本基督教団部落解放センターの方々を初め多くの宗教者の姿も見受けられました。野外音楽堂がいっぱいになるほどの非常に多くの方々が石川一雄さんの再審を求めて集会を開き、集会後は日比谷公園から東京駅の方まで歩いてデモ行進を行いました。マスコミの方々も大勢来ておられたのですが、その日の夕刊にも、翌日の朝刊にも、またその他のメディアでも、この市民集会のことがまったく報じられないのです。これは毎年のことで、あれだけの記者は何のために来てたんだろうといつも不思議に思わされます。
  実際にひどく苦しんでおられる方がいる。その現実があるにもかかわらず、国にとって都合の悪い現実は臭いものに蓋と言いますか、なかったことにされてしまう。そんな風潮があるのかなと、勝手ながらに考えてしまいました。
  こうした経験を立て続けにしまして、私はこんなことを思わされたのです。今の時代、また私たちが生きているこの世界というのは、非常にコーティングに長けた時代、世界ではないかと。苦しむ人々がいる黒い真っ暗な現実が確かにあるのに、それを真っ白に塗り潰して何でもなかったことにしてしまう。結果、日常生活の中で、苦しむ人々の現実が何も見えてこない。それゆえ、こうした人々の現実とは何の関わりもなしに、そして何の葛藤もなしに生きていける。私たちが生きているこの時代、この世界は、特に東京という所は、そうしたことに長けた時代であり、世界であり、場所ではないでしょうか。
  こうしたコーティングはイエス様の時代にも存在していまして、私はこうしたコーティングを引き裂く活動をされたのが、他でもないイエス様だったと思うのです。標記の聖書個所、マタイによる福音書9:9〜13で、イエス様は徴税人であったマタイを弟子にし、徴税人や罪人と一緒に食事をされ、こう言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
  イエス様のこの言葉は、当時の常識を根底から覆すものでした。当時は病人や障がい者、徴税人、娼婦、羊飼いなど、律法で定められた人々、また律法を守れない人々は皆「罪人」とレッテルを貼られて、一緒に食事をすることすら禁じられて、社会から疎外されていました。人々は、そうした「罪人」の苦しみの現実に蓋をして、まさにそうした苦しみは初めからないかのようにコーティングをして、関わりを避け、自分が救われることばかり考えていたのです。これが、当時の人々の常識でした。
  けれども、イエス様はそんな常識を打ち破って、「罪人」たちの現実に寄り添われました。そして、こうした人々にこそ救いをもたらすために、御自分が来られたことを人々に宣べ伝え、「罪人」たちの現実に関わっていくように人々を招かれたのです。イエス様の教え、イエス様の行い、それはまさに苦しむ人々の現実をなかったことにしようとするコーティングを破る声であり、実践でした。
  今を生きる私たちも、イエス様に従う者として、現代の様々な苦しみの現実を覆い隠そうとするコーティングの力に抗って、そうした現実に関わっていくことが求められています。では、どのようにすれば、私たちにはそれが可能になるでしょうか。
  私はそれは、共感の心(シンパシー、痛みを共にする心)をいつもオンにしておくことだと思います。コーティングの力が働くと、これがオフにされてしまいます。逆に言えば、共感の心をいつもオンにしておけば、私たちはコーティングの力に囚われることから免れて、苦しむ人の現実に寄り添っていくことができるのではないでしょうか。
  聖書を読めば、イエス様が共感の心を本当に大切にされたことが良く分かります。それこそが、イエス様が、当時の時代にもあったコーティングの力に支配されずに苦しむ人々の現実に豊かに寄り添っていかれた秘訣だったのでしょう。
  人が人を傷つけることに何の罪も感じなくなっている、まことに共感の薄い現代にあって、また、人の痛みを甘受するセンサーが腐食したこの時代のただ中にあって、私たち、改めてイエス様が大切にされた共感の心をこの社会に広く訴えていきたいと願います。人々の苦しみの現実を無かったことにしようとする、そして、そんな現実とは関わりなしに日常生活を送らせようとする、そんなコーティングの力に皆で一緒に抗っていきましょう。苦しむ人々に連帯し、そうした苦しみの現実を一つひとつ乗り越えて、神様の御心をこの世界に成していきたいと願います。

 
 
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