聖霊降臨節 第8主日(2019年7月28日)礼拝説教要旨
 

「命の奥深さ」
(コリントの信徒への手紙一 12章14〜26節)

北村 智史

 一昨年から教団の「『障がい』を考える小委員会」の委員になり、さらに昨年からNCCの「『障害者』と教会問題委員会」の委員をさせていただくようになりました。これまでは人権の問題、その中でも主に部落差別の問題に関わる奉仕を担当してきたわけですが、それに加えて障がい者に関わる問題にも携わるようになったわけです。その分、忙しさは増しましたが、得られることもたくさんありました。
 障がい者に関わる問題というのは、人権問題など、部落差別問題とも通じる部分もあるのですが、それ以外にも、教会が身体障がい者、精神障がい者を含め、障がい者にどのように寄り添っていくかといった問題や教会のバリアフリーの問題などたくさんの問題がありまして、初めてのことも多く、学ばされることも多いのです。
  先日もNCCの宣教会議に参加するために、同じ「『障害者』と教会問題委員会」の委員の方と高田馬場駅で待ち合わせをして早稲田の日本基督教会館まで行きましたが、その方が目の見えない、全盲の方なんですね。その方の手を私の肩に乗せてもらって、会場までご案内したんですが、そうすると、普段は気が付かない色々なことに気付かされました。ここに点字ブロックがあったのかとか、普段何気なく通っているけれども、このルートは階段ばかりで難儀だ、エレベーターがないとか、ああ、エスカレーターは全盲の方にとっては乗り降りするタイミングが測れないので危険だなとか。そうした経験を通して、普段、自分がいかに健常者の視点にばかり立って障がい者のことを考えていなかったのか、反省させられました。
  こんな風に、新たに加わった障がい者関連の二つの委員会の活動を通して、日々新たな発見をする毎日を過ごさせていただいています。確かに、新たな奉仕を引き受けるというのは大変なことですが、一生懸命頑張れば頑張った分、得られるものもたくさんあるのでしょう。これからこの二つの委員会の活動を通して得られたことを、教会の奉仕にもどんどんと還元していくことができればと考えています。そして、今日のお話も、この二つの委員会の活動の中で学ばされ、考えさせられたお話です。
  さて、先程は聖書の中から、コリントの信徒への手紙一12:14〜26をお読みいただきました。パウロが体の譬えを用いて、教会のあるべき一致について語った場面です。パウロがこのように教会の一致について語ったのには、ある理由がありました。ここでコリントの町とその教会について簡単に説明をさせていただきますと、コリントの教会は、パウロが2回目の宣教旅行を行った時に造られた教会です。このコリントという町はギリシアの都市で、当時はローマの地方総督が常駐し、商業都市として栄えて経済的な繁栄をしていました。人口の3分の2は奴隷だったとも言われています。経済的な格差が著しく、富む者と貧しい者がいて教会内部には幾つもの分派ができていました。このことを裏付けるように、コリントの信徒への手紙一1:10〜17には、コリントの教会の人々が、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」などと言って派閥を作って争っていたことが記されています。このように、コリントの教会は、民族の違い、社会層の対立、福音理解を巡る対決などがあり、一致が大変困難な教会でした。
  特に霊的熱狂主義者と言われる人たちがひどくて、彼らは自分たちを誇りにし、他の人々を軽んじていました。礼拝において熱狂的恍惚状態になる、そんな自分たちこそ霊的な賜物を持っている完璧な存在、完成したキリスト者だと考えて、他の人々を見下していたのです。そして、そのように見下された人々の中には、自分に自信を無くして教会から身を引こうとする者もいました。
  そんな状況を前にしてパウロが語ったのが、体の譬えです。これを読めば、パウロが教会の一致について具体的にどのように考えていたかが良く分かります。体が、それぞれ役割の違う多くの部分で一つの体を形作っているように、教会もまた、それぞれ賜物の異なる多くの人たちで一つの教会を形作る。教会に集う一人ひとりは、体の器官のように、取り換えの効かないかけがえのない存在である。そこに、優劣はない。このように、パウロは教会員同士の間で優劣を付けること自体を否定しました。教会員は、それぞれが独自の賜物、役割を持ったかけがえのない存在である。その教会員一人ひとりがそれぞれの分に応じて力を合わせて教会全体のために生きるのだ。多様な賜物や機能を持って相互に力を合わせて神様の御用のために働いていくのだ。パウロはこのように自分の理想とする教会の一致を語り、人々を諭しました。
  こうしたパウロの教会論の中で、私が今回最も印象に残った言葉が22節の言葉です。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。パウロは言います。弱く見える部分があることによって全体に配慮というものが生まれ、分裂が起こらずに済むのだと。パウロのこの言葉は、今の私たちが社会や共同体について考えていく上で、とても大切なものではないでしょうか。
  なぜなら、私たちが生きているこの社会には、人の命を生産性だけで測ろうとする、そうして生産性のない弱者を切り捨てようとする、そんな価値観が横行しているように思えるからです。「LGBTの人々は子どもを作らない、つまり生産性がない。だから、そこに税金を投入するべきではない」と発言した自民党の杉田水脈議員然り、「障がい者は役に立たず、精神的にも肉体的にも経済的にも、周囲の者に、また社会に負担をかけるだけの存在だ。そんな障がい者は安楽死させるべきだと考えて犯行に及んだ」と言う「津久井やまゆり園事件」の犯人然り。この二人が特別異常だったのだと考えて、それで済ませてしまうことは容易でしょう。しかし、私はこの二人の事件は、決して私たちと無関係ではない、私たち人間の心の中にある闇を露わにした事件だったと思うのです。
  考えてみれば、これまで、人の命はいつでも生産性で測られてきました。戦争中は戦争に役立つ人間が生産性があると見なされたわけです。そうして、戦争に役立たない人間は、生産性がないとして排除されました。ナチスドイツでは、20万人もの障がい者がガス室へ送られたと言われます。では、今はどうでしょうか。今は経済に役立つ人間が生産性があると見なされます。そして、経済に役立たない人間は社会から排除されてしまいます。日本では、今でこそ精神障がい者は、長期入院させずになるべく社会に戻すような治療が施されるようになってきましたが、それまでは家庭監禁、病院監禁でした。
  このように、私たちの社会では常に人の命が生産性という観点から、あるいは「役立つ」、「役立たない」という観点から測られてきたわけですけれども、先日、「『障害者』と教会問題委員会」の一人の委員が、NCC宣教会議でこんな発言をしておられました。その方は生まれた時から四肢に障がいを抱えておられるのですが、「私たちの命というのは、決して生産性、あるいは『役立つ』、『役立たない』という物差しだけでは測れない奥深さを持っている」と言うんですね。「生産性という物差しで測られたら、私のような障がい者は確かにマイナスとなるのでしょうが、しかし、そのような私たちにも神様から素晴らしい賜物を与えられている」とその方は仰るのです。そして、その例として、御自分の家庭での経験を挙げておられました。「ある時まで自分は家族に負担ばかりかけて申し訳ないと思っていた。しかし、ある時に母親から、『あなたという障がい者が家庭にいることによって家族の間に思いやりや絆が生まれているんだ。あなたのおかげで家族が幸せになった』、そのように言われた」と言うのです。そして、「もし、社会が強い者(賢い者)だけで構成されていたら、その争い、闘いのために自滅したかも知れない。しかし、社会は弱い者、愛や配慮を必要とする者の存在によって、辛うじて保たれているのだ」という自身の信念を語っておられました。
  私はこの言葉は、「社会は強い者、賢い者を中心に周っているんだ。強い者、賢い者がリーダーシップを取って引っ張っていくものなんだ」と考えている世の中の人々に対する強烈なアンチテーゼだと思います。強い者が中心となり、弱者が切り捨てられていく社会。そんな社会はやはりどこかに問題を抱えていると言わざるを得ません。まさにパウロが今日の聖書個所で語っているように、弱く見える部分があることによって全体に配慮というものが生まれるのであり、弱者が思いやりや絆を生み出す、そうして社会を愛によって結び付けていく源となっている、そのようにして弱さにこそ支えられているのがまことに健全な社会なのだと私は思います。家族も、教会も、社会も、そのように弱者中心の、弱さにこそ支えられる共同体を目指していくべきでしょう。
  「障がい者は生産性がない。安楽死させるべきだ」。そんなのは命の奥深さを知らない愚かな人の意見です。この礼拝の一時、私たちの社会が生産性だけで人の命を測ろうとするのではなく、それだけでは測れない人の命の奥深さ、可能性に目を開かれるよう祈りたいと思います。誰一人切り捨てられることのない、そうして、私たちの目には弱く見えるその人が、思いやりや絆の源となって光り輝く社会を、皆で一緒にこの世の中に打ち建てていきましょう。

 
 
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