聖霊降臨節 第9主日(2019年8月4日)平和聖日・礼拝説教要旨
 

「戦争に正義などない」
(イザヤ書 11章1〜10節)

北村 智史

 標記の聖書個所(イザヤ書11:1〜10)は、預言者イザヤの最晩年の預言です。ここには、メシアによって成し遂げられる平和が語られています。それは、権力や軍事力によって成し遂げられるような地上の不安定な平和では決してありません。インマヌエルの神様を体現するメシアの統治によって神様と人が和解し、被造世界にも平和がもたらされ、全地から民族の垣根を超えて新しく神の民が集められる、そんな平和です。私たち教会はイエス様の御支配の下、終わりの日にそんな神の国の平和が打ち建てられるのだと信じています。その意味で、標記の聖書個所は、私たちがイエス様と共にどのような世界、どの様な平和をこの地に打ち建てていかなければならないかを豊かなイメージで教えてくれていると言うことができるでしょう。
  特に6〜9節では、一切の暴力が否定されています。メシアの支配の下では、いかなる危害も攻撃もあり得ない。すべての存在が主を、またその御心を知り、攻撃する力も思いも放棄して共存する。こうした平和を、私たちはイエス・キリストと一緒に成し遂げていかなければならないのです。
  しかしながら、私たちが生きているこの世界を振り返ってみれば、そこには至る所で戦争や紛争が繰り返されています。イザヤの時代から現代に至るまで、人類の歴史は戦争、紛争の歴史だと言っても過言ではありません。標記の聖書個所を読みながら、私は、なぜ人は人を攻撃するのだろうか、人に危害を加えるのだろうか、そんなことを思わされました。そして、「人は何かを選択するときに、善しか選ばない。殺人、強盗、万引き、詐欺等々の悪が行われる時も、その人にとってそれが善だと映るからそのような悪が行われるのだ」と語った渡辺和子さんの言葉を読んで、戦争や紛争も、それが善だと、正義だと映るから行われてしまうのかなと思わされました。
  実際、戦争や紛争が行われる時には、争うどちらの国も自国の正義を主張します。オサマ・ビンラディンもサダム・フセインも、ブッシュも、皆戦争をするにあたって自分たちの正義を主張しました。「神の名において、自分たちの行為は正しい、正義である。神は我々と共におられる」。そう主張して、自分たちの戦争行為を正当化したのです。こうしたことは決して最近になって始まったことではありません。大昔から人間は、それぞれが正義を主張しながら戦争や紛争を行ってきたのです。
  けれども、私は思います。そのように正義を主張して戦争行為を行った国で実際に正義たりえた国はあったのだろうかと。先の戦争で考えれば、日本は、「これは大東亜共栄圏を建設するための聖戦だ。そうして、欧米列強からアジアを守るんだ」。そう主張して、アジアに侵略戦争を行っていきました。そして、その中で、南京大虐殺や泰緬鉄道の悲劇など、正義とは程遠い多くの戦争犯罪が行われました。
  では、その日本を負かしたアメリカは、正義の国だったと言えるでしょうか。明後日は広島原爆の日、9日は長崎原爆の日ですが、これら二つの原爆のことを思う時、私にはどう考えてもそのように考えることはできません。原爆について考える時、日本の加害性と切り離して考えることはできない、そのことは理解します。そもそも、日本が狂気に走って侵略戦争を行わなかったならば、原爆という悲劇も起きなかったでしょう。その意味で、原爆被害の責任は日本にもある。そのことは理解します。けれども、広島、長崎の原爆資料館を訪れたことのある人はよく分かると思うのですが、あれだけの悲惨な被害をもたらした原爆投下を、アメリカがよく言うように戦争終結をもたらした英雄的出来事であった、完全な正義の行為であったと主張されるのは、私は我慢ならないのです。
  たとえアメリカがしばしば主張するように、原爆によって、戦争が長引いた時に死ぬはずの大勢の命が救われたのだとしても、そのために何十万人という人を無差別に殺害した大量虐殺行為を、はたして正義と呼ぶことはできるでしょうか。原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、そして、放射線による障がいがその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。広島、長崎の原爆資料館は、本当に涙なしには見れません。どれほどの恩恵があったからと言って、これほどの残酷な行為を正当化できると言うのでしょうか。
  このように、先の戦争の勝利国アメリカも決して正義の国とは言えない、原爆投下という大虐殺行為、戦争犯罪を行ったわけです。こうしたことを思うにつけ、私は考えさせられます。「戦争に正義なんていうものはないんだなあ」と。一度戦争になれば、どちらの国も勝手な正義を主張し始める。しかし、戦争の中ではそんな正義もどこかに吹き飛ばされて、残酷な戦争犯罪の応酬になる。勝った方は色々な美辞麗句を並べ立てて自らの罪悪を覆い隠そうとするのかもしれないが、結局戦争では勝つ国も負ける国も、罪悪の限りを尽くすのだ。そう思わされました。
  ですから、これから先、私たちはどんな政治家がどんな言葉で「正義の戦争」という言葉を口にしても、これに反対していきたいと思います。「正義の戦争」なんてないんだ。一度戦争が起きれば、正義なんてどこかに吹っ飛ばされて悲惨な戦争犯罪の応酬になるんだ。このことをしっかりと胸に刻み、どんな戦争にも「それは悪である」という声を上げていきたいと願います。
  願わくは、神様が遠くない未来に、私たちが生きているこの世界に御自分の平和を打ち建ててくださいますように。神様の御支配のもと、いかなる危害も攻撃もないそんな世界を、皆で一緒に打ち建てていきたいと願います。

 
 
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