聖霊降臨節 第20主日(2019年10月20日)礼拝・説教要旨
 

「人間よ被造物の呻きを聞け」
(創世記1章1〜5節、24〜31節)

北村 智史

 創世記1:24〜31節前半は、天地創造の第六の日について記されている場面です。これまで天地を創り、植物と魚と鳥とを創って来られた神様は、この日に家畜や地の獣、地を這うものをお造りになり、そして最後に人間をお造りになりました。大切なのは、27節に記されているように、この際、神様が「御自分にかたどって人を創造された」と言われていることでしょう。さらに、創世記1:28には、このような人間に、神様が「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とお命じになったことが記されています。このために、教会では長い間、人間は神様の似姿を持った特別な存在として、すべての自然を自由に支配する権威を神様から授けられたのだというふうに理解されてきました。アメリカの科学史家でありますリン・ホワイトは、1967年にScience誌に発表した論文の中で、こうしたキリスト教の人間中心主義的な自然観、世界観が現代における地球の生態学的危機を生み出していると述べて大きなセンセーションを巻き起こしました。
  こうしたリン・ホワイトの問題提起に応える形で、1980年代から本格的に、まずは英語圏を中心にして旧約聖書における創造神学が改めて論じられ始めます。それが、自然破壊や環境汚染が世界的規模で問題視されたことと軌を一にすることは言うまでもありません。世界中で環境問題が声高に叫ばれ、その責任がキリスト教の自然観、世界観に問われる中で、聖書の読み直しが行われたのです。そしてその中で、人間は神から自然の管理を委ねられた信託管理人であるという思想が展開されました。そして、今ではこうした考えが教会の一般的な考え方になっているように私には見受けられます。
  では、実際に、私たちはこの考えにふさわしく、神様に任命された信託管理人として自然に仕え、これを守っていくということを実行できているでしょうか。ここで、私たちが生きている今のこの地球について考えてみれば、そこには、森林破壊や大気汚染、海洋汚染、土壌汚染に生態系の破壊、地球温暖化など、様々な環境問題がそこかしこに溢れています。今、私たちが直面している環境問題を一つ一つ取り上げて数えてみれば、そこには枚挙に暇がないほどです。特に地球温暖化の問題は深刻で、昔よりも明らかに地球の気温は上昇しており、その影響でしょう、日本でも西日本豪雨や先日の台風19号のような、これまでには見られなかったような大きな災害が毎年のように発生しています。それらはすべて、人間が欲望の赴くまま、自由に自然を搾取し、勝手な支配を続けてきた結果生じてきたものに他なりません。人間の罪の行いが人間に跳ね返って来ている今のこの状況になっても、しかし、人間はどうでしょうか。16歳の少女が、また何百人という同世代の若者が国連前で訴えても、一向に耳を貸そうとしない。自分たちの発展、自分たちの利益ばかり求めて、地球を破壊する行為を続けている。聖書の読み方が変わっても、私たちが生きているこの世界は、悔い改められない人間の罪でいっぱいです。私たちはいい加減、被造物の呻きに耳を傾けるべきではないでしょうか。
  聖書を読めば、人間の罪と自然の関わりが決して周縁的な問題ではないと言いますか、重要なテーマになっていることが良く分かります。人間の罪が生み出す自然破壊の問題に言及した箇所が幾つも出てくるのです(cf.エレミヤ書12:4、ホセア書4:1〜3etc.)。このように、聖書は至る所に人間の罪と自然との関わりを、つまり人間の罪が自然破壊を生み出している現実を書き留めています。旧約聖書こそは人間の罪や悪のために起こる自然破壊をしっかりと書き留めた古代の唯一の文献であり、創造信仰に生きた旧約聖書の信仰者たちは、「地が嘆き悲しむ」声をはっきりと聞きました。それゆえ、救いの時代の到来を述べる時には、ホセア書もイザヤ書も、人間が救われるだけではなく、自然も救われること、回復されることを書き加えることを忘れませんでした。そして、こうした思想が、ローマの信徒への手紙8:18以下にパウロが記している「被造物の呻き」にまで引き継がれています。
  パウロは言います。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知ってい」ると。そして、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」、そういう希望を持っていると。聖書の救い、それは人間だけの救いに終始するものでは決してありません。人間が悔い改め、救われることによって、被造物、自然も救われなければならない。そのようにして初めて、聖書の救いは完成を見るのです。
  しかしながら、ここで私たちの救いについての考え方を振り返ってみれば、そこにはどれだけ偏狭な考え方が溢れていることでしょうか。地球温暖化を初め、様々な環境問題について考える時、自分たちの発展、自分たちの利益ばかり求めて、地球を破壊する行為を続けている人間の罪に嫌が上でも気付かされます。将来の人々の救い、自然の救いなどちっとも気にかけることなく、今の自分、あるいは自分たちが最大限の利益を受けて快適に幸せに生きること、それこそが救いなんだと言わんばかりの有り様です。こうした罪、こうした誤解を、私たちは正していかなければなりません。
  願わくはこの礼拝の一時、神様が私たちの視野を思い切り広げてくださいますように。国家という枠組みも越えた、そして、未来の世代の人々も含むすべての人々の救い、またすべての自然の救いを願うまことに聖書的な考え方を、私たち今こそこの世界に広く告げ知らせて行きたいと願います。そして、被造物の呻きに耳を傾け、自分の、あるいは自分たちの利益ばかり追求してきたその罪を悔い改めるところから、このユニバーサルな救いを成し遂げていきたいと願います。

 
 
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