降誕節 第6主日(2019年11月17日)礼拝・説教要旨
 

「例外をつくらない」
(ルカによる福音書10章25〜37節)

北村 智史

 標記の聖書個所(ルカによる福音書10:25〜37)を読む時に見逃せないのは、このお話において、「わたしの隣人とは誰か」という問いが、「誰がその人の隣人となったか」という問いに置き換えられていることでしょう。イエス様は「善いサマリア人のたとえ」を通して、隣人とは「誰か」と問うものではなく、「なる」ものだと教えられたのです。すなわち、「わたしの隣人とは誰か」と愛すべき人を誰かに限定してしまうのではなくて、何よりもまず愛することによって隣人という関係を生み出していくことこそ愛の本質であることを、イエス様は律法の専門家に教えられたのでした。実に愛とは無条件なものであって、「この人は同胞のユダヤ人だから、〜〜だから愛する、この人は同胞ではないから、〜〜ではないから愛さない」というように条件を付けて愛すべき人とそうでない人を分けるのは、愛に相応しくないのです。
  愛において例外をつくらない。すべての人を無条件に愛する。それが愛である。イエス様が私たちに教えてくださったこの真理は、今の日本の社会で人権について考える上でとても大切なものだと私は思います。実は先月の29日から31日にかけて、私は日本基督教団の部落解放センターが主催する「部落解放全国会議」に出席して参りました。そこで最も印象に残ったのは、日本基督教団氏家教会員で部落解放同盟栃木県執行委員長をされている和田献一さんから伺った国際人権基準についてのお話です。
  和田さん曰く、人権の概念というものは、第二次世界大戦以前と以後で大きく変わったそうです。第二次世界大戦以前の人権概念というものは、人権は「すべての人の権利」と言いながら例外をつくって排除してきた、そのようなものだったと言います。
たとえば、フランス革命の人権宣言に出てくる「人」homme(オム)という言葉は「男性」を意味しており、その中には女性も子どもも含まれておりませんでした。白人の男性が人の範型とされ、それ以外は例外として排除され、歴史の闇に葬られてきたのです。
また、ナチスドイツによる障がい者20万人を虐殺した恐るべきT4作戦やユダヤ人600万人を虐殺したホロコースト等々、それらはすべて、ある特定の人々が人権概念の外に置かれ、例外とされ、差別され、排除された結果生じた悲劇に他なりません。
しかしながら、第二次世界大戦以後、このような人権概念が変化します。ホロコーストなどに見られたように、「例外」は虐殺を生むという反省から、世界人権宣言に続く人権条約は、「すべての人は例外なく社会の構成員として処遇される」としたのです。こうして、人権概念は、例外をつくらない、すべての人が個人として尊重され、権利行使の主体となるというものへと進化していきました。こうして、すべての人が例外なく人権を守られるSocial Inclusionの社会、まさに多様性を認める社会への道が開かれたのです。
今では、世界の人権論は、すべての人が例外なく社会の構成員として処遇されるのが当たり前となっています。そして、これまで存在してきたマイノリティへの差別、排除、人権侵害についてはそれまでの事実を認めて、謝罪して賠償する。そうして、その過程を通してマイノリティが個人の尊厳を回復し、社会が多様性を認める新しいものへと変わっていくことが目指されています。これが、現在の国際人権基準です。
しかし、これに対して日本の人権論はどうでしょうか。私は以前、東京府中教会の平和聖日でもお呼びした田中宏先生の講演で、私たちの憲法について、マッカーサー憲法草案では「すべての自然人は、法の前に平等である」(13条)、「外国人は法の平等な保護を受ける」(16条)と記されていたのに、出来上がった日本国憲法では、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(14条)と書き換えられたことをお伺いしたことがありましたが、このように憲法の保護の対象を「国民」に限ろうとする姿勢一つを取ってみても、日本の人権論が第二次世界大戦以前のものに留まっていることが良く分かります。在日また外国人などが例外とされ、憲法の保護の対象から排除されるわけです。朝鮮学校が無償化の対象から外されるなどというのは、そのように例外とされた人々に対する差別、排除の典型的な例でしょう。国家が差別、排除を行うわけです。
「慰安婦」の問題にしても、日本は、マイノリティへの差別・排除・人権侵害の事実を認めて謝罪し、賠償する、そしてその過程を通してマイノリティが個人の尊厳を回復する、そうして多様性を認める新しい社会を作り出していくという現在の国際人権基準の流れに逆行するようなことをし続けている。マイノリティを排除し、人権侵害にさらしても、国家の制度や政策の誤りを認めない。未だにマイノリティという例外をつくって、国家で差別、排除を行っている。残念ながら、それが私たち日本の人権論だと和田さんは仰っておられました。
そのような中にあって、私たち、日本の人権概念を国際的な基準にまで引き上げていかなければなりません。すべての人が例外なく社会の構成員として処遇される第二次世界大戦以後の新しい人権概念を浸透させて、多様性を認める新しい社会へと生まれ変わって行かなければなりません。そのために、私たち教会は、「愛において例外をつくらない。すべての人を無条件に愛する。それが愛である」と教えてくださった今日の聖書個所のイエス様のこの真理を、どこまでも広く宣べ伝えていきたいと思うのです。
願わくは、神様が私たち教会の宣教の業を豊かに祝福してくださいますように。例外をつくらずに、すべての人を己の隣人とする愛をこの社会の隅々にまで行き渡らせたい。そうして、差別や排除のない社会、すべての人が例外なく大切にされる神の国にふさわしい社会を、皆で一緒に打ち建てていきたいと願います。

 
 
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